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【第九十三話】王の怒り

200年早秋 官渡


官渡を駆け抜ける風はいまだ暑気を孕んでいたが、次第に乾いたものになりつつあった。


砦の中では、周瑜と法正が火攻めの準備を進めていた。

陳羣の采配により、許昌から運ばれた魚油等の油と共に壺が山のように積まれている。

その数――三千を超える。


「これを投げ壊すだけでは足りませぬ。風を味方につけねば」

周瑜は絵図を広げ、風向きと敵の陣形を緻密に読み取った。

「この南風が味方してくれれば、やつらの防火布も意味をなさぬでしょう」


法正がうなずき、油壺を布で包みながら応じる。

「壺の封を弱くしておくことで、衝撃で中身が飛散し、火矢の勢いを倍加します」


劉豹は背後で静かに騎兵たちに命じていた。

「油壺を持つ者は交互に配置、投擲の後すぐ退け。火矢隊は合図ののち一斉射。よいか、混乱すれば我らが焼かれるぞ」


周瑜は目を細めた。

「今宵は炎が天を裂く――孫堅将軍にお伝えください。潮目が来た、と」



---


翌未明。

孫堅は本陣の旗を打ち振った。

「全軍、出陣!敵を引き寄せるのだ!」


陣太鼓が鳴り、黄蓋・張遼・魏延らが一斉に前進した。

昌豨と周泰は右翼、臧霸と孫策は左翼を担い、中軍は敢死隊の陳到と共に孫堅が紅の大将旗を掲げて前へ進んだ。


砂塵が巻き上がり、轟々たる声が大地を揺らす。

袁紹軍の本隊と共に井蘭車が前進し、高所より無数の矢を放ってくる。


孫堅は緒将を叱咤激励し、

「退けば死あるのみ!進め!」

その声に兵たちは奮い立ち、盾を掲げて矢雨を耐えた。


袁紹軍が孫堅本隊に気を取られている中、未明の暗闇を裂いて馬蹄が響く。


「劉豹隊、攻撃開始!」

周瑜の号令が響く。

千あまりの油壺が破裂する音と共に火矢が一斉に放たれ、夜空を紅に染める。

火矢は飛翔し、前方に並ぶ井蘭車の群れへと降り注いだ。


次の瞬間――

業火が夜明けの空を焦がす程に立ち上る。

油壺が砕け、油が飛散し、炎が燃え広がった。

たちまち十数基の井蘭車が炎に包まれ、その上の弓兵たちは叫び声を上げながら転げ落ちた。


南風が炎を煽り、火柱が連鎖するように次々と井蘭車へ燃え移った。


「な、何だこれは――!?」

袁紹陣中が混乱に陥る。

袁紹軍の兵士が必死に水を運ぶが、魚油の火は水を得て爆発するようにさらに広がった。


孫堅はその光景を遠望し、拳を握った。

「周瑜、法正、劉豹……見事だ!」


戦場の空はまるで白昼のように輝き、

炎の海と化した官渡原の中央で、袁紹軍の陣形は大きく崩れていった。



---


袁紹本陣


幕舎が赤く照らされる中、審配が叫ぶ。

「殿!井蘭車部隊が全滅――!」


袁紹の顔が炎と怒りで紅潮する。

「何をしておる!これだけの兵がいながら、火ひとつ消せぬのか!」


そのとき、別の伝令が駆け込んできた。

「報告!東方戦線より伝令――袁譚様、関羽に討たれました!」


「なにっ――!?」

幕舎の空気が凍りつく中で、袁紹がその場に崩れ落ちる。

「袁譚が……っ!まさか……!」


重い沈黙の後、袁紹は怒りに震えながら立ち上がり椅子を蹴り倒し、刀を引き抜く。

「おのれ!孫堅、劉備、関羽め!まとめて余が(ほふ)ってくれよう!」


彼は怒号を発し、指揮官たちに命じた。

「并州の高幹を呼べ!三万の兵を率い、ただちに官渡へ参陣しろ!この地を焼け野原にしても構わぬ。総攻撃をかけるのだ!」


田豊が慌てて進み出る。

「殿、しかし河北の守りは――」


「黙れ! 余の怒りはやつらの首なくば鎮まらぬわ!」


幕舎の外では、炎の勢いが凄まじく袁紹軍の兵達はただ呆然と見つめるだけであった。

炎は袁紹の怒りが渦巻くように、官渡の夜空を焦がしていく。


――かくして、火と血が交錯する戦の第二幕が、

静かに幕を上げようとしていた。

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