【第九十一話】北海の炎
200年早秋 徐州琅邪国・東武
北海からの風が川面に黒き波を荒れ狂わせていた。
その岸に築かれた仮幕舎の中、郭図は文醜討死の報を受けても眉ひとつ動かさなかった。
「……文醜の死か。惜しいが、顔良の突騎は順調に南下しておる。孫堅の援軍でも来ぬ限り、我らの進軍は揺るがぬ」
彼の冷静な声音に、周囲の幕僚たちはむしろ戦慄した。
郭図の眼は、敗北すら盤上の一石として見ていた。
「顔良がこの地で劉備を押し潰せば、徐州は我らの掌中に落ちる。その後、東方より予州へ進軍すれば、孫堅を袁紹様の本隊と挟撃出来る。さすれば天下は袁氏のものだ」
幕舎の端で、袁譚が不安げに問いかける。
「だが、郭図よ。文醜は父の勇将の一人。兵の心が揺らぐことは……」
「些事に過ぎませぬ。失った兵も元は袁術の残党と揚州の野盗崩れ。この地での勝利ですべてはとりもどせましょう」
その言葉を最後に郭図は筆を執り進軍の命を下すのだった。
――その時までは、彼自身も信じていた。すべては掌の内であると。
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数日後、北海の空を裂くように早馬が駆け込んだ。
「報告!青州壮武城――陥落!劉備の義弟、関羽らが城を制圧したとのこと!」
その報に郭図は筆を落とした。
一瞬の静寂。
次の刹那、幕舎は怒号に包まれた。
「な、何だと!?壮武は北海の門ぞ!そこが破られたら我らの退路が……!」
袁譚の顔は蒼白になり、幕僚たちは互いに言葉を失った。
郭図は蒼ざめながらも、唇を噛んだ。
「落ち着け……!敵はまだ壮武に過ぎぬ。青州には兵が残っておる!」
「し、しかし噂はすでに広がっております!“関羽、青州を奪う”と!」
郭図は机を叩きつけた。
「箝口令を出せ!一兵も口を開くな!騒ぎ立てるものは敵の間諜として引っ捕らえろ!」
だが時すでに遅かった。
江東耳目――劉備の諜報組織は、すでにこの報を風のように広げていた。
“劉備軍、壮武を奪取す”
“軍神関羽、青州を破る”
“我が軍、退路絶たる”
その噂は戦場の兵心を焼き崩す火となっていた。
やがて、全軍に動揺が走った。
袁紹軍の諸将は次々に退却を進言し、袁譚も動揺したため、郭図はやむなく退却を決断する。
「北海へ退く!顔良を呼び戻せ!」
命を受けた顔良はすぐさま、数千の幽州突騎を率いて、北方壮武へと急行した。
凄烈な突進力を誇るその軍勢は、風のように駆け、数日のうちに壮武近郊へ迫った。
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その頃、壮武の城上。
諸葛亮は地図の上に指を滑らせながら策を進言した。
「敵軍が壮武に至るまでには三つの街道がございます。だが、幽州突騎の進撃速度を考えれば、北岸の乾路――すなわちこの林を経る道を取るはず。この地であれば伏兵を置けましょう」
関羽は頷き、愛馬のたてがみを撫でた。
「諸葛亮、見事な読みだ。かの猛将も我が手で斬り伏せようぞ」
彼は五百の精鋭騎兵を率い、夜陰に乗じて出陣した。
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翌朝。
林を抜ける峡道に疾風のごとく幽州突騎が突入した。
顔良は血に染まった套を翻し馬上で吠える。
「関羽め、我が友、文醜の仇――我が刃で雪ぐ!」
その瞬間、道の両側から鬨の声が轟いた。
「関羽雲長、此処にあり!」
紅い戦袍をなびかせ、関羽が赤兎を駆って現れた。
顔良の眼に青龍偃月刀の煌めきが映る。
二騎は正面より激突。
大斧と青龍偃月刀がぶつかり合い、火花が宙に散った。
「おのれ――!」
顔良の大斧が唸りを上げる。
だが、関羽の刃はその一瞬を見逃さなかった。
風を裂く一閃――青龍偃月刀が弧を描き、顔良の首が宙を舞った。
沈黙ののち、幽州突騎の軍列が崩れた。
「顔良将軍が――!」
「退けっ!」
逃げ惑う突騎兵を賀斉の軍が両側から押し包み、戦場はたちまち袁紹軍の屍で埋まった。
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同じ頃、退却途中の袁譚軍も劉備本隊に追撃されていた。
殿軍の何茂・王摩が奮戦するも、張飛と太史慈が前後より襲い掛かる。
「兄者の地を踏み荒らしておいて、無事に帰れると思うな!」
張飛の蛇矛が唸り、王摩の盾を貫く。
太史慈の双戟が閃き、何茂を討ち取った。
“顔良討死、幽州突騎、全滅”
“殿軍何茂・王摩両将、討死”
その報を聞き袁譚は驚愕で青ざめ、郭図は舌打ちをするのだった。
前後を挟まれ進退窮まった袁譚、郭図は敗残兵をまとめながら北海街道を北進していた。
かつての整然たる大軍の面影はなく、寒風の中に漂うのは敗北の匂いだけであった。
「郭図よ、これよりいかに致すべきか……」
袁譚の声には焦燥が滲んでいた。
郭図はしばし沈黙ののち、低く呟いた。
「……いまや退路は二つに分かれます。ひとつは青州・北海へ戻る道、もうひとつは冀州・黎陽へと抜ける道です」
袁譚は眉をひそめた。
「冀州には父上の本軍がある。ともに戻るのが自然ではないか?」
郭図は静かに首を振る。
「それでは敵に一挙に追われます。ここは――二手に分かれるのが得策でしょう。私が囮となり冀州へ向かいます。敵もまさか我らが青州に向かうとは思いますまい。私が追われている隙に、袁譚様は青州へ向かい兵をまとめて再起を期されるがよいでしょう。何より……」
郭図は袁譚を諭すように優しく述べた。
「このまま冀州に落ち延びれば、袁譚様の世継ぎの道は閉ざされてしまいましょう。しかし、青州で再起を図り、劉備を再度討つことが出来ればお世継ぎは袁譚様をおいて他にはおりますまい」
一見もっともらしい策であった。
だが郭図の胸中には、別の思惑があった。
(敗軍の将を生かす道はひとつ。己が犠牲となるより、他を囮にすること)
郭図はわざと袁譚に多くの兵を与えた。
「兵少なくば再起を期すにも支障が出ましょう。私は袁譚様さえご無事であれば良いのです」
そう袁譚に告げ、郭図は冷たい眼で空を見上げた。
その瞳には、策士の非情な決断が宿っていた。
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劉備本隊は青州街道へ続く平野を北上していた。
風にたなびく翠の旗のもと、魯粛が馬を寄せる。
「劉備様、敵は退却の途中、二手に分かれた模様。
袁譚は兵を率いて青州へ、郭図は少数で冀州に向かったとの報です」
「どっちを追うか……か」
劉備は馬上で眉をひそめる。
魯粛は一歩進み出て進言した。
「郭図は策士、やつが逃げの一手を打ったならば追い付くことはできますまい。また、二兎追うものは一兎をも得ずと言います。ここはこの勢いのまま青州を押さえましょう」
劉備は魯粛の肩を叩き破顔した。
「俺には良き軍師が付いている。関羽も青州におり、かの地を取る好機だな。皆のもの!我らは青州に進む!」
劉備軍本隊は青州街道を北東へ進軍、関羽は顔良を討った勢いそのままに南西に進軍した。
その挟撃の刃は、敗走する袁譚軍を容赦なく切り裂いた。
青州の原野に袁譚の怒号が響いた。
「退け!退けぇ!郭図は……郭図の援軍はまだか!」
しかし答える声はなく、乱軍の中、袁譚は矢を浴びた。
胸を貫かれ、落馬した袁譚の瞳が最後に見たのは、青龍偃月刀の影であった。
彼は血に染まった地に倒れ、静かに息を引き取った。
「袁譚、討ち取ったり!」
劉備軍の将たちが勝鬨を上げ、戦場に歓声が広がった。
北海の地に立ちこめる煙は、まるで袁氏の命運を焼き尽くす炎のようであった。




