【第八十九話】軍神推参
200年盛夏 揚州九江郡
歴陽城
夏も盛りになり湿った風が、長江のほとりを吹き抜けていた。
城楼の上、ひとり立つ偉丈夫がいた。
黒々とした髯は風に揺れ、陽を受けて青く光る。
その瞳は北天を射抜くように鋭く、この先を見通すようにただじっと見つめていた。
そこへ、駆け足で階段を上る足音。
報告に現れたのは、若き将・賀斉であった。
「報告いたします。許貢の動向を探っておりましたが、呉郡から広陵郡へ向けて大量の兵糧が運ばれております。しかもその先には多数の武装船団が。尋常ではございません」
美髯の漢はわずかに頷き、北を向いたまま低く呟いた。
「……風が、血の匂いを運んでおるな」
その声には、戦場を幾度も踏み越えた者だけが持つ静かな凄みがあった。
「賀斉、兵をまとめよ。兄者の元で火の手が上がる前に、我らが行く」
「はっ。しかし、歴陽の守備は――」
「虞翻に任せる。文武に秀でし漢だ。留守は彼に託そう」
そう言うと、漢は城門の方へ歩み出る。
青い衣の裾を翻し、背には陽光を弾く長柄の刃――青龍偃月刀が揺れた。
兵たちは畏敬の念を込めその背を見送る。
その姿は、まるで古の軍神が戦場へ降るかのようであった。
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同じ頃、広陵郡では夜の闇を裂く叫声が響いていた。
城を包囲する文醜軍は二万、守る成廉と楽進の兵は五千。
火矢が空を舞い、濠に落ちて水煙を上げる。
城内では成廉と楽進、諸葛亮が打開策を話し合っていた。
「兵糧を断てば奴らは長駆遠征してきており、飢えるであろう。今宵、夜襲を駆けるぞ!」
成廉は血走った目で叫ぶ。
諸葛亮が宥めるように冷静に説明をする。
「成廉殿、敵は大軍であり、敵将文醜も軍略に秀でし者と聞きます。少数での夜襲は危険ではないでしょうか?」
楽進も諸葛亮の言に同意を示すが、
「お主らの懸念も分かるが、消極策ではこの状況は打開できん。奴らは不馴れな土地での連日の攻城で疲労困憊であろう。夜襲が最も有効な策だ!」
成廉は聞く耳を持たず、数百の兵を率いて夜陰に紛れ出撃した。
だが、その策は文醜の待ち伏せに見事に嵌った。
「成廉とやら、この広陵に死に場所を求めるか!」
文醜が咆哮し槍が閃く。
瞬間、成廉の槍は弾かれ、その体は馬上から落ち、泥に沈んだ。
「……呂布殿のような武の極みは……遠いか……」
それが成廉の最期であった。
成廉の死で城内は意気消沈したが、楽進は必死に叱咤激励し、城内の士気を維持。
その後も防戦を続けたが、敵の攻勢は増す一方であった。
諸葛亮も打開策を検討するが、いかんせん彼我兵力差が大きく、有効打をうつには至らなかった。
「成廉殿、貴殿の死を無駄にはせぬが…」
城内の兵の疲労は極限に達し、脱走を図る兵も続出、楽進の見つめるなか、籠城は限界を迎えつつあった。
もはや、陥落は時間の問題――その時だった。
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遠くから、地を打つ蹄の音が響いた。
空を裂くような咆哮とともに、南方より五千の援軍が到来。
先頭に立つは赤き馬――赤兎。
その背に跨がるは美髯の将。
青龍偃月刀が陽光を反射し、刃の弧が空を裂いた。
「誰だ!」
南門を攻めていた橋蕤が誰何すると、先頭の偉丈夫が答えた。
「我が名は関羽雲長。この地の州牧劉備玄徳が義弟。兄者の地を踏み荒らす賊徒ども!我が青龍偃月刀の錆びにしてくれる!」
橋蕤は一瞬たじろいだが、嗤って叫んだ。
「たった五百の騎兵で何が出来る!者ども蹴散らしてしまえ!」
「試してみるがよい。」
関羽は馬首を返すと、風のように駆けた。
青い刃が閃き、橋蕤の槍を弾き飛ばす。
次の瞬間、風が止まり、橋蕤の首が宙を舞った。
血飛沫が散り戦場の喧騒が一瞬にして凍りついた。
「ひ、ひと振りで……!」
袁紹軍の兵たちは声を失い、ただその姿を見上げた。
関羽は南門周辺の残敵を掃討している歩兵部隊の元に戻ると、
「賀斉、歩兵を東へ進めよ。どうやら東門に本隊がいる様子。我らは後方に回り込む。」
「はっ!」
赤兎の鬣がなびき、騎兵部隊が東門を攻める袁紹軍の後方へ回り込む。
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城壁より関羽の動きを見ていた楽進は城兵に援軍の到着を告げた。
軍神到来に城兵の士気は高揚し、楽進は彼らを率いて東門より出陣した。
東門の外では、炎と血煙が渦を巻いていた。
文醜は後方の小高い丘に陣を張り、袁術残党の将達を指揮していた。
「飛んで火に入る夏の虫よ。李豊の後詰めとして我らも進み、城より出てきた兵どもを押し包み殲滅するぞ!」
咆哮とともに馬を駆り、兵を前進させる。
楽進は奮戦するも、連日の戦で疲労は限界に近く、南から迫る賀斉の援軍も火矢に阻まれて進めない。
文醜は勝利を確信し、槍を掲げて叫んだ。
「このまま一気に広陵を落とすのだ!この文醜が天下に名を轟かせる刻ぞ!」
その瞬間――
丘の背後より、風を裂く蹄の音が響いた。
最初は微かに、やがて雷鳴のように近づき、土煙が舞い上がる。
「敵襲だ!」
見張りの兵が叫ぶ。
赤兎馬に跨がる関羽率いる騎馬五百が迫っていた。
青龍偃月刀が陽光を受け、龍のごとく光を放った。
「あの髯と大薙刀はまさか――」
文醜の顔が引き攣る。
迫る気迫に武人として本能が警鐘を鳴らした。
「皆の者、怯むな!所詮は少数の奇襲ぞ!」
そう怒鳴り、文醜は自ら槍を構えて馬腹を蹴った。
距離が一瞬で縮まる。
両者の眼光が交わった瞬間、空気が張り詰めた。
「来いっ!」
文醜が咆哮し、長槍を突き出す。
青龍偃月刀が閃き、槍の穂先を打ち払った。
金属の悲鳴とともに火花が散り、馬がすれ違う。
互いに振り返り、再び構え直す。
「貴殿がこの軍の将帥か?」
「我が名は文醜!貴様を葬りさる者の名、しかと刻め!」
「我が名は関羽!いざ、尋常に」
『勝負!!』
二騎が再び突進する。
槍が風を裂き、偃月刀が光を刻む。
幾度となく打ち合い、火花を照らす。
文醜の剛槍は山をも砕くかのように振るわれたが、関羽の刀閃は水のようにその勢いをことごとく受け流す。
「ぬぅぅっ――!」
文醜は怒号とともに槍を振り下ろした。
だが、青龍偃月刀がその槍を掬い上げ、瞬間、文醜の体勢が崩れる。
その刹那青い光が閃き、赤兎が一声嘶く。
文醜の首が宙を舞い、槍ごと地に崩れ落ちた。
静寂。
戦場の喧騒が止まり、風の音だけが響く。
関羽は振り返りもせず、刀を一閃して血を払う。
その背に立つ五百の騎兵は一斉に鬨の声を上げた。
「関将軍――勝ったぞ!」
「文醜討ち取ったり!」
青空に響く勝鬨。
赤兎馬が前脚を上げ、蹄が大地を叩く。
それはまさに軍神と見紛う姿であった。




