【第八十六話】官渡の砦
200年仲春 司隸河南尹・官渡
官渡
黄河と汝水が緩やかに合流するこの地は、白馬と許昌を結ぶ要衝であり、中原を制する鍵でもあった。
春の風はまだ冷たく、河面を渡る度に砂塵を巻き上げる。
孫堅が袁紹と黄河を挟んで対峙していた時を同じくして、呂範はこの地で測量用の縄を手に、丘の上に立っていた。
「ここを堀とし、河を導き入れる。南面は湿地ゆえ敵は進めまい。北面に主門を置くことで守りは集中できる」
傍らに控える工兵長がうなずき、兵たちはすぐさま鍬を振るった。
呂範は周囲の村からも人夫を集め総勢二万で作業を開始していた。
その砦は地形そのものを城壁とするもので黄河支流・官渡水を堀に見立て、三方を水で囲われていた。
周囲に土塁を築き、内部には糧秣庫と兵舎、弩台を整えた。
突貫工事により五万の軍が立て籠れる規模の堅固な砦が出来上がったのは夏に入る頃であった。
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白馬から退却してきた孫堅軍が黄塵を巻き上げて官渡砦に到着した。
先陣の魏延が馬上より声を放つ。
「白馬より孫堅将軍の御帰還だ!」
その声に応え、工兵らも鍬を振るう手を止めて頭を上げた。
砦を見上げた孫堅は、鎧に砂を被りながらも、目はなお鋭かった。
「呂範、よくぞここまで築いた」
「はっ。周辺の農民の力を借り、完成に漕ぎ着けました。この砦であれば地形を味方につけ、袁紹軍を防ぐこと叶うでしょう」
孫堅はうなずくと、地図を広げた。
陳羣が許昌より送ってきた補給線計画がそこに重ねられている。
許昌から官渡まで糧秣を連ねる線――。
長期戦を見据えた兵站護送の配置を陳羣は見事に構築していた。
「この線が生きておれば、我らは十度戦っても崩れぬな」
孫堅の声には確信があった。
魏延には重騎兵千を率いて砦北方に陣を敷かせ、蒋欽の影矢隊をその背に配置。
張遼と劉豹の軽騎兵は南方に回し、遊撃・伝令・追撃の三任を担わせた。
全軍は堅く息を合わせ、持久戦の構えを整え始める。
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その夜、砦の松明が風に揺れる中、孫堅は一人天幕の外に立った。
遠く、北の方角に無数の火が連なっている。
陽武――そこに袁紹が本陣を構えたとの報が入ったばかりだった。
袁紹は白馬渡を突破したのち、延津に全軍を集結。
田豊が動き、浮橋を架けて黎陽からの輸送路を確保した。
袁紹軍の精兵七万が今や官渡へと迫ろうとしていた。
「官渡を守りきれるか……。」
孫堅は低く呟いた。
その眼差しは闇を貫き、燃える松明の先に浮かぶ北の星々を見上げる。
背後から黄蓋が歩み寄る。
「殿、砦は完成しておりますが、この地に籠もるだけでは飢えが敵となりますぞ」
「黄蓋、そちの言う通りだ。こちらも打って出る機を見つけねばならぬな。まずは、この砦を以て息をつなぐ。兵も休まねば、決戦は戦えぬ」
黄蓋は深くうなずいた。
夜風が二人の鎧を鳴らす。
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やがて夜明け、砦の上空に朝日が差し込む。
その光が金色の帯となって南北の軍を隔てた。
――官渡。中原の命運を決する地。
孫堅と袁紹、二人の雄が今、ここにぶつかろうとしていた。




