【第八十五話】白馬の決断
200年晩春 兗州・白馬
春も終わりを告げようとしていたが、黄河の流れはなお冷たく、北西よりの風が渡るたび、波頭が白く砕けた。
北岸には、袁紹軍の陣営が果てしなく連なり、その旗は黄塵を巻き上げながら空を覆うようであった。
「敵、渡河の構えを見せております!」
伝令の声に、孫堅は馬上で眉をひそめた。
「来たか……。黄蓋、迎えの支度をせよ。河を血に染める覚悟で臨め。」
「はっ!」
副将・黄蓋が応じ、太鼓を鳴らした。
六営のうち、風・火・雷の三営が前へ進み、影矢隊も矢を装填する。
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そのころ北岸では、袁紹軍先鋒の眭元進・韓莒子が陣を整えつつあった。
軍勢およそ二万。
「敵は黄蓋か。勇将とは聞くが、老いの身ではこの勢いを止められまい」
眭元進が嘲ると、韓莒子が笑った。
「渡り切れば許昌への道は開ける。勝負の時だ!」
太鼓が鳴り、黄河に無数の筏が浮かんだ。
寒風の中、風上より袁紹軍が一斉に渡河を開始する。
だが――それを待っていたかのように、孫堅軍の号砲が鳴った。
「弩兵、放てぇい!」
黄蓋の号令一下、南岸の矢が黒い雨となって降り注いだ。
筏の上にいた兵たちは次々と河に落ち、流れに呑まれてゆく。
矢の合間を縫って、雷・甘寧が先陣を切った。
「連縄の策で敵を水に沈めよ!この河は我らの庭ぞ!」
鋭い号令とともに、蒙衝が間を空けて勢いよく進む。
敵の筏が間の通過を試みると沈めておいた縄を引き、敵兵を水中へ叩き落とす。
風・李通、火・昌豨も弓隊を激励し、袁紹軍へ向けて矢の雨を降らせる。
叫声が入り乱れ、袁紹軍の渡河は一時頓挫する。
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「なんと……押し返されたと?」
報を受けた淳于瓊は顔を青ざめさせた。
「眭元進・韓莒子、いずれも手練れの将。老将黄蓋ごときに阻まれるとは……!」
焦りを隠せぬ淳于瓊のもとに一歩進み出た者があった。
それは袁紹の政務を補佐する審配である。
「淳于瓊将軍、ここは力で押すのではなく、我らの利を用いるべきかと。」
「利、だと?」
審配は地図を指でなぞり、黄河の流れを示した。
「白馬ばかりに固執すれば、敵はこの地に防を構え、我らの兵数の利が生かせませぬ。延津に向けて別働を放ち、河を渡るのです。我が冀州の強弩隊をもって、孫堅軍の背を衝けば――黄河を盾とする敵の策は意味を失いましょう」
袁紹はその策に頷いた。
「よかろう。審配、お前に延津への別動隊の指揮を任せる。弩の威を以て、橋頭堡を築け!」
「御意。」
こうして、審配率いる強弩三千を中心とした別働隊一万が、夜陰に紛れて延津へと進発した。
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十日程度、白馬を巡る戦が続いたその翌朝、孫堅陣に報が届く。
「敵、延津を渡河中!」
陳武が血相を変えて報告する。
孫堅はすぐさま判断を下した。
「張遼・劉豹、騎兵を率いて延津へ向かえ!敵を河中に沈めよ!」
「はっ!」
二将が率いる一万の騎兵は河沿いを西に向けて駆け抜けた。
しかし、延津ではすでに審配の強弩隊が陣を築いていた。
一斉に放たれた矢が弾幕を張る。
鎧ごと貫くその威力は尋常ではなく、張遼の部下が次々と馬から落ちた。
「くっ……これが冀州の弩か!」
張遼が唸りながらも突撃を敢行する。
だが、矢の壁がそれを阻み、有効な手を打つことが出来なかった。
やがて敵は橋頭に拠って堅陣を敷くことに成功した。
孫堅は伝令より、袁紹軍の延津での渡河成功の報告を受けた。
「……このままこの地に固執しても、官渡への退路を塞がれるだけだな。全軍、官渡へ向かうぞ!」
「殿! まだ戦えます!」
黄蓋が叫ぶ。
「黄蓋、これは退くのではなく、生き残り、次の機を掴むための前進だ」
孫堅の声は低く、しかし揺るぎなかった。
それを聞き、黄蓋は深く一礼する。
「御意――官渡へ向け、全軍前進!」
黄河を背に、孫堅軍は秩序を保ちながら進んだ。その姿に、誰も敗走の影を見なかった。
それは次なる戦に向けて、ひいてはこの大戦に生きて勝つための決断であった。




