【第八十三話】電光石火
200年仲春 冀州魏郡・黎陽
春の風がまだ冷たさを帯びる頃、沮授は黎陽の黄河渡しで馬を止め、西方を睨んでいた。
眼下に広がる平原は淡く霞み、遠く河内の地がぼんやりと見える。
洛陽の玄関口――河内を制することこそ、袁紹の「王道の戦」の第一歩であった。
「殿下の掲げる“王道”とは、力で民を屈せしむる覇ではなく、正義をもって天下を服せしむる道なり。ならば、民を安んじるために、軍を分けてでも速やかに事を運ぶことが肝要だ」
沮授の言葉に、傍らの張郃と高覧は眉を寄せる。
二人はいずれも名将の誉れ高き者であったが、今回の戦役では胸中穏やかではなかった。
「沮授殿は殿の信頼厚き方。我らもその才に全幅の信頼をおいております。その貴殿が監軍の座を追われ、ただの一軍都督とは…」
「郭図殿や淳于瓊殿が同格とは、到底納得できませぬ」
張郃と高覧の不満を聞き流しつつ、沮授は柔らかく微笑んだ。
「二人の言は嬉しく思う。だが、我らが成すべきは殿の王道を体現することであり、その手段は些末なことだ。我らは我らの使命を果たすことを考えよう」
その温厚にして断固たる声音に、二人は思わず背筋を伸ばした。
「……承知仕った。では速戦こそ肝要ならば、沮授殿、いかが致す?」
沮授は頷き、手にした地図を開いた。
「張郃殿は東より懐県へ、高覧殿は西から修武へ。私は中央より進みます。河内の地を制するはこれより十日の内――この策でいきましょう」
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その言葉通り、進軍はまさに電光石火であった。
三万の兵の一糸乱れぬ攻撃に、河内郡内の諸城は次々に白旗を掲げた。
わずか六日にして郡治所懐城を包囲した。
対する懐城城主は張楊――洛陽防衛に与する雄である。
懐城の上空には火煙が立ち昇り、矢が風を裂く。
張郃と高覧が攻め立てるも、張楊の守りは固く、兵五千ながら死力を尽くして抗した。
「このままでは日がかかるな……」
高覧が呻くように言うと、沮授は静かに笑んだ。
「孫子曰く、“戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり”。張楊は勇あり義を重んずる将ゆえ、これと戦うは害が多い。だがその腹心、眭固は袁氏に旧恩ある者と聞く。――その心を攻めましょう」
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二日後
夜の帳が下りるころ、城の北門で密かに火が灯った。
眭固の裏切りによって門が開かれると、張郃・高覧の兵が一気に雪崩れ込んだ。
怒号と悲鳴が入り混じる中、張楊は奮戦したが、高覧の槍がその胸を貫いた。
落城までわずか三日。
沮授は宣言より一日も早く、河内郡を制したのだった。
「沮授殿……恐るべし。」
張郃が畏怖の念をもって呟く中、沮授は厳しい顔つきで東方を見つめていた。
「我らの戦は害少なく終わったが、孫堅本隊との戦はこうはいくまい。我らの次なる動きはいかにすべきか……」
次なる戦に思いを馳せていた。
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その夜、逃げ延びた董昭・繆尚・薛洪らは、懐城南方で超儼の救援軍と遭遇した。
「まさか、もう落ちたと……?」
報を聞いた超儼は顔色を失い、洛陽へ撤退を決断した。
懐城の炎は夜空を紅に染め、洛陽の方角を照らした。
それはまるで、嵐の前触れのようであった――。




