【第八十一話】それぞれの正義
200年初春 冀州・鄴
公孫瓉の首が晒された易京陥落から数か月過ぎ、年が明けた。
春の訪れにはまだ遠く寒さの厳しい日が続いていた。
凍てつく風のなか、袁紹は城の楼上に立ち、北方の空を見つめていた。
遠く、燕山の頂には未だ白雪が残り、その下にはかつての宿敵・公孫瓉の亡骸が眠る。
「……公孫瓉を討ち、河北を平らげた。だが、天下は未だ乱れたままよ。洛陽には孫堅、徐州には劉備が割拠し、このままでは天下は定まらぬ」
その言葉に、側に控えていた郭図が口を開いた。
「殿、いまや冀州・并州・幽州・青州の兵馬はすべて殿が手中にございます。この勢いをもって南下し、孫堅・劉備を一掃すれば、天下は殿のものにございましょう」
郭図の言葉は力強かったが、すぐに別の声がそれを遮った。
「軽々しく南下を申すな!」
声の主は田豊。
不快な表情で郭図を睨みつけた。
「兵は疲弊し、河北の地は戦後の復興もいまだ半ば。このまま南へ兵を進めれば、後方は空となり、民心は乱れましょう。いまは内政を整え、国を固めるとき。さらに孫堅や劉備は、漢の義を掲げる者。無益な戦は天下の恨みを買います」
郭図は鼻で笑った。
「田豊殿、またその理屈か。天下を取るとは、時を待つことではなく、時をつくることですぞ」
審配が二人の間に立ち、低く言った。
「殿の御心は一つ――漢を正すことにあり。ゆえに、孫堅や劉備のような“偽りの義”を掲げる者を放置はできませぬ。今こそ河北の兵をもって中原を討つべき時!」
田豊は目を伏せ、袁紹を見た。
「殿……」
しかし、袁紹の目は静かに南を向いており、その眼光にもはや迷いはなかった。
「……天下は一つでなければならなん。漢の名を掲げようと、仁義を唱えようと、私を阻む者は、みな逆賊とみなす」
その言葉に郭図と審配が深く頭を垂れた。
田豊は小さくため息をつき、冬の空を仰いだ。
(殿は、もはや道を選ばれたか……)
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広間には袁紹を囲んで、郭図・田豊・審配・沮授・淳于瓊、そして筆を携えた陳琳が並んでいた。
袁紹は群臣を睥睨し目を細めた。
「偽の義を正すには、真の義を以てせねばならぬ。
我が家は四世三公、漢を輔けし名門なり。董卓ごときが擁立した者は正当な帝ではない!陳琳よ、我らが正義を天下に知らしめるために筆を執れ」
陳琳は深く一礼し、硯を擦り始めた。
墨の香が広間を満たし、筆先が走る。
“天に二日なく、地に二王なし。
今、洛陽の孫堅は漢の名を僭し、己が私心を正義と称す。
徐州の劉備は仁を装い、天下を惑わす。
彼らは義を盗み、名を借りて利を求むる偽義の徒なり。
袁本初、祖より義を継ぎ、王命を奉じ、逆を討ち、正を興す。
諸侯これを助けずんば、いずくに忠義を立つべきや。
今義兵を起こし、奸偽を掃い、漢を正さんとす。
共に旗を挙げ、真の義に従え”
筆を置いた陳琳の額には汗が滲んでいた。
その文は堂々として理正しく、読む者を震わせる気迫に満ちていた。
袁紹は満足げに笑い巻紙を掲げる。
「よい。これこそ義の文なり。郭図、使者を放て。冀・并・青・幽・豫・兗・徐・司・揚・荊・涼・益・交――すべての州にこの檄を届けよ。」
こうして陳琳の「義兵起檄文」は天下へ放たれた。
北風に乗り、文字が矢のように各地へ飛んでゆく。
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洛陽
孫堅は檄文を読み、唇を引き結んだ。
荀攸と司馬朗が控え、沈黙の中で主の反応を待つ。
「……“洛陽の孫堅、漢の名を僭す”とは、よく言ったものだ」
声には静かな怒りがこもっていた。
「陳琳は筆の雄。理路整然にして情熱を帯び、民心を掴みましょう。この文をもって袁紹は己を正義の化身と装い、諸侯に号令を発しましたな」
荀攸の冷静な分析を聞き、孫堅は深く息を吐く。
「義とは名や文ではない。その行いに付いてくるものだ。……この檄文に惑う者があろうとも、俺は道を変えぬ。荀攸、兗州・予州に通達せよ。袁紹の動き、逐一報せよと。」
荀攸は主の命に服しつつ、心に思う。
(名のみを追わず、義を行える漢――これこそ真の義の士。私の道は間違っていない)
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徐州・下邳
劉備は檄文を手に取り、諸将を集めていた。
文を読み終え、沈黙が落ちる。
「この俺の心意気を“仁を装い、天下を惑わす”と評しやがるか…」
劉備の顔は笑っていたが、その瞳の奥には怒りの炎が燃えていた。
その劉備の気持ちを代弁するように、張飛が怒りを爆発させる。
「兄者の仁と義を偽と抜かすか!」
太史慈も眉を寄せ唸る。
「この文は確かに冴えてはいるが、仁と義のなんたるかがまるで分かっていない」
荀彧は三人をなだめ、檄文を巻き直す。
「仁や義とは名ではなく、心に宿るものにございます。名が先に立てば、仁も義も歪んでしまうでしょう。我らは言葉でなく、行いで証を立てることで、天下万民に示せばよいのです」
劉備は満面の笑みを浮かべ宣言する。
「荀彧の言う通りだ。俺達は今までと変わらず、思うまま漢の世を暴れまわるとしようか!」
諸将が喝采を上げる中で、荀彧はその熱い空気に面食らった様子の諸葛亮と目が合い、どちらともなく微笑むのだった。
(この人こそ、真に漢の光を継ぐ者――天の意はこの劉備玄徳に在るかもしれぬ。)
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荊州・新野
曹操は静かな夜に、檄文を読み終えると長く息を吐いた。
庭に出て、月のない空を仰ぐ。
「袁紹、真の義を称す、か……。」
杯を傾け、苦笑を浮かべる。
「義を以て戦を飾る者は多い。やつは董卓討伐の際も同じ手を使っていたな。だがあの時とは違い、此度は義に殉ずることができるかどうか…」
郭嘉が背後から問う。
「では、殿にとって義とは?」
曹操は夜風に髪を揺らしながら答えた。
「義とは、人が人を導く力の名だ。それが偽でも真でも、天下を動かすなら、義と呼ばれて然るべきだ。俺にはまだ足りなかった物だな…」
自嘲するように笑い、その笑い声も闇に消えていった。
やがて風が檄文をさらい、夜空に舞い上がる。
陳琳の筆が放った一枚の檄は、やがて中原を、戦火へと導く狼煙となった。




