【第八十話】蒼狼と伏龍
200年初春 洛陽
洛陽の朝はまだ冷たく、春の霞が洛水の上を薄く漂っていた。その霞を割って、一騎の馬が司空府へと駆けてくる。
荀攸であった。
予州から来た荀攸は、各郡太守の任命と軍政改革の報告を携えていた。
政務室に入ろうとすると、奥から声が聞こえてくる。
荀攸が扉を開けると、司馬朗が弟を伴い、孫堅の前に跪いていた。
「この者、弟の司馬懿にございます。学問を好み、経史を極めんと志す者にございます」
孫堅は卓上の文巻を閉じ、柔らかな眼でその青年を見つめた。
司馬懿は礼を取りつつも、その目に警戒と冷ややかな光を宿していた。
「司空殿のお召しは恐れ多く存じます。しかし、私はいまだ学の道半ばにあり、筆をもって世を知ることを志としております。いま仕官いたすは、時期尚早と考えております」
その声は傲慢ではないが、どこか距離を置いた響きを持っていた。
兄の司馬朗は慌てて取り繕う。
「弟は気の弱きところがありまして……」
だが、孫堅はそれを制し静かに口を開いた。
「司馬懿、そなたの祖先・司馬尚は、かつて趙の滅亡の際、民を見捨てず、救国のために奔走した。乱世にあって己の学を実に用いた忠臣であったと聞く」
司馬懿の瞳がわずかに動く。
「……祖先の事績をご存じとは」
「いま漢もまた、揺らいでおる。国が乱れ、義が曇るこの時に、ただ書を開き筆を握るのみで世は救えようか?学問は尊い。だが、行いが伴わねばそれは独善にすぎぬのではないか?」
その言葉には叱責の響きはあったが、怒気はなく、ただ静かに胸を打つ熱があった。
司馬懿はその言葉を聞き、己の内にあった傲りを悟った。
(この漢――時流にのっただけの武辺者と思っていたが、史を知り、それを実に生かす術を知っている。我が身を託すに足る御方やもしれん)
やがて、司馬懿は深く頭を垂れた。
「……司空殿の御言葉、我が不明を恥じます。愚才がいささかでも世の助けとなるならば、祖先に恥じぬよう務めます」
孫堅は微笑を浮かべた。
荀攸は静かにその場を見守りながら、小声で呟いた。
「この若者……蒼天の世に、己が道を貫く意思の強さを持った孤高の狼だな」
洛陽の空に薄日が射し、霞の向こうで鐘の音が響いていた。
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一方そのころ、徐州・下邳。
城門前に立派な体躯をした武人が現れた。
長身に白馬、槍を携えたその男は、常山郡の趙雲であった。
「趙子龍、劉備様の義の元に参じました」
知らせを聞き城門に迎えに来た劉備は、その姿を見た瞬間、手を叩いて喜んだ。
「おお、趙雲!よくぞ俺のもとへ来てくれた。これでまた、漢に忠を尽くす同志が増えたぞ!」
荀彧と諸葛亮も劉備と共に来ており、趙雲の威風堂々たる姿を見て息を呑む。
諸葛亮はこのような偉丈夫が袁紹や孫堅ではなく劉備のもとへ来たことを疑問に感じた。
「趙雲殿、なぜ我が殿のもとへ?」
趙雲は微笑して答えた。
「私が仕えていた公孫瓉将軍は、北の地の平和のために尽くしましたが、袁紹に敗れました。劉備様とはその際にお会いしており、以前よりその仁義の志をお支えしたいと思っておりました」
その言葉に劉備は大喜びし趙雲を抱きしめ、共に政庁に向かうのだった。
その光景を見ていた諸葛亮の胸に、今まで感じたことのないものが宿る。
横にいた荀彧は諸葛亮の変化に気づいた。
「諸葛亮、いかがした?」
諸葛亮はハッと気づき、劉備と趙雲の後ろ姿を見つめながら答えた。
「劉備様に従い揚州、徐州と参りました。その間、劉備様の底抜けに広い器には感じるものがありましたが、いささかいい加減な方と思っておりました」
「しかし、此度、北の雄・公孫瓉旗下随一の豪傑たる趙雲殿が、他の錚々たる群雄がいる中で劉備様の元に馳せ参じた姿を見て、改めて我が主の人望、いや徳の光に感じ入った次第です」
荀彧は一時諸葛亮を見つめたあと、彼には珍しく大笑いした。
「諸葛亮、君の素直なところは美徳だな。主を冷静に見ることが出来、必要とあらば諫言も辞さないだろう。今はまだ天下が君を知るわけではないかもしれないが、いずれ皆が君を知ることとなろうな」
諸葛亮は少し拗ねた顔になり荀彧から目をそらす。
「誠でしょうか?漢として生を受けたからには、本当は趙雲殿のように勇名を馳せたいと思うところもあるのです」
才溢れる若人の姿に荀彧は眩しいものを見るように目を細めた。
「質の違いはあるが、君は趙雲殿に勝るとも劣らない才を持つ龍だよ。何より我らには底抜けに大きな雲たる劉備殿がいる。その雲の元、思うままに天を翔けるがよい」
二人は徐州の澄んだ空を見上げた。
冷たい空気の中に温かさを含んだ春の風が吹いてゆく。
蒼狼が歩み出し、伏龍が己が才を自覚する。
まだ、小さき二つの星がいずれ天下を震わせる日が来ることを、まだ誰も知らなかった――。




