【第七十八話】幕間 再起の刻
199年初秋 荊州南陽郡
定陶を落ち延びた曹操は、わずかな供を連れて荊州南陽郡に入った。
敗残の将の姿は、かつて中原を震撼させた奸雄の影をとどめぬほどに痩せ衰えていた。
彼を出迎えたのは南陽太守・蔡瑁であった。
蔡瑁はかつて孝廉に同年登第した旧交の縁もあり、曹操を快く迎えた。
「曹操殿。よくぞご無事で」
その言葉は力強かったが、失意の曹操の胸には響かなかった。
蔡瑁は曹操に新野城を与えることとした。
そして、すでに客将として抱えていた張繡、賈詡を招き宴の席を設けた。
張繡は涼州騎兵を従えた剛将であり、賈詡は李傕・郭汜の天下を影より支えた智謀の士であった。
蔡瑁は甥の劉琮を劉表の後継に立てるべく、自派閥の弱点である軍事力を補おうと目論んでいた。
そのため、曹操や張繡といった武断派を取り込むことは必然の策であった。
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酒宴の席で賈詡は杯を傾けながら小声で吐き捨てた。
「……これが乱世の奸雄と恐れられた男か。見る影もない」
その冷笑は曹操の耳にも届いたが、彼は虚ろな瞳で盃を揺らすだけであった。
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やがて与えられた新野の城で、曹操は厚遇に甘え、日々を漫然と過ごすようになった。
夏侯惇は歯噛みし、郭嘉は沈痛な面持ちで主の背を見つめた。
「このままでは……曹操様はただの人で終わってしまう」
――その時である。
兗州から長き苦難の旅を経て、青州兵の残兵一万とその家族が新野にたどり着いた。
飢えと疲労に憔悴しながらも、彼らは城門にひれ伏して叫んだ。
「曹操様!我らはあなたに従うと誓った身!どこまでもお供させてくだされ!」
騒ぎを聞き付けた曹操は城壁に登り、呆然と彼らを見下ろしていた。
だが、己のことを信じ、この地までたどり着き、涙ながらに自らの名を叫ぶ、子供から老人までの姿を見て、曹操は心の中に込み上げてくる熱いものを感じた。
――己の身は、もはや己だけのものではない。兵や民達は、この乱世に拠り所を求めて自分に集ったのだ。一時の敗北で覇気を失い、空虚に沈む自分を、それでも支えようとする者達がいる。
曹操の背筋がゆっくりと伸びた。虚ろだった眼に光が戻る。
「……そうだな。まだ、終わったわけではない」
郭嘉がその変化を見逃すはずはなかった。
「曹操様……今のお顔こそ、私が信じ、従ってきた乱世の奸雄の貌にございます」
夏侯惇は拳を握り、嗄れた声で応じた。
「孟徳よ!ようやく戻ったか!」
かくして曹操は、再び乱世を駆ける覇者としての歩みを始める。
新野の城に、失意から立ち上がった一人の男の覇気が燃え上がった。
その覇気は、やがて荊州の地を揺るがし、中原に再び嵐を呼び込むのであった。




