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【第七十五話】荀彧の苦悩

199年初夏 兗州僕陽


曹操からの使者がたどり着いた時、すでに夜は深く、程昱の館には深い沈黙が漂っていた。

定陶から届いた敗報、曹操の窮状、そして孫堅が掲げる「献帝」という大義の旗。


卓越した政略家であり、名士の鑑と称される荀彧は、蝋燭の灯を見つめながら長く口を閉ざしていた。


やがて、掠れるような声が洩れる。

「……私はこれまで曹公を支えんと尽力してきた。しかし、此度の戦では漢室を奉じるべき聖漢の道を踏み外し、逆に刃を向けることとなった。天命はすでに我らを見放したのかもしれぬ」


程昱は荀彧をまっすぐ見つめる。

「荀彧殿……汝の苦悩、わしもまた理解できる。曹公には惚れこんでおるが兗州の名士として、これ以上同郷の民が戦火に呑まれるのを見ておれぬ」


荀彧は頷き苦渋の決断を口にした。

「我らが降るは孫堅にではない。献帝に降るのだ。これぞ我が志、聖漢思想に殉ずる道なり」


程昱は目を閉じ、決意を固める。

「ならば共に行こう。ただし……曹公の命を救う道も探らねばならぬ。わしは兗州の郡県を従える責を負う代わりに曹公の助命を嘆願するつもりだ」



---


数日後、荀彧と程昱は護衛の兵を従え、孫堅の陣営を訪れた。

焚かれた松明の中、二人は軍門に迎えられる。


荀彧は進み出て、声を張った。

(われ)、荀彧はここに献帝の御旗に帰順いたす!」


その凛とした言葉に、陣中がざわめいた。

程昱も一歩進み、孫堅に深く拱手する。

「曹公は敗れ、定陶に籠っております。どうかその御命だけはお助けください。もし叶うならば、兗州の諸郡はわしが責任をもって従わせましょう」


孫堅は二人の姿を見据え、しばし沈黙した。

やがて重々しく頷く。

「……よかろう。曹操の助命、私が約そう。ただし、曹操を我らの領内に留めることは許さぬ。また、同行は百名に限る」


二人は(こうべ)を垂れ、約束を受け入れた。



---


対談後、荀彧と程昱は定陶城へ入り、曹操に孫堅からの書状を渡した。

城内は暗く沈んでいたが、孫堅陣営から来た荀彧に対して、夏侯淵や曹洪は怒りを隠さず罵声を浴びせた。

「裏切り者!曹操様を見限るか!」


しかし曹操は二人を制し、苦笑を浮かべた。

「いや、荀彧に見限られたは、我が不徳の故だ。この書状に書かれているが、二人が余の助命嘆願をしてくれたと……その情、ありがたく思う」


荀彧は程昱と目を交わし、静かに言った。

「曹操様、これよりは荊州へ落ち延びられるのがよろしいでしょう。すでに殿の孝廉の同期、蔡瑁へ使者を送ってあります」


曹操は呆れたように笑い、同時に感謝の色を浮かべた。

「……そなたらの手際のよさには恐れ入るな。もう遅いかもしれぬが、余と共に来てはくれぬか?」


荀彧は首を振り、毅然と答える。

「私は献帝陛下に帰順しました。曹操様とここで(たもと)を分かつこと、どうかお許しください」


曹操は深く息を吐き、未練を断ち切るように立ち上がった。

「ならば余は、余の道を往くまで。夏侯惇、郭嘉、行くぞ!」


そのとき于禁が進み出た。

「我は亡き鮑信様に兗州を守ると誓った。この地を離れることはできませぬ」


さらに楽進もまた口を開く。

「主公、私は徐州の戦で張飛の武を目にし、畏怖を感じました。もし許されるなら……あの男と再び戦い、武の高みを目指したいと考えています」


曹操は二人を見やり、ふっと笑った。

「……よかろう。ともに戦ってくれたこと、忘れぬ。二人とも、己が道を往け」


その顔は、憑き物が落ちたかのように清らかであった。


こうして曹操は、夏侯惇・郭嘉らを伴い、定陶を去っていったのであった。

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