【第七十三話】偽りの策
定陶の野は、夕陽に染まりつつあった。
赤き光が戦場を覆い、両軍の兵の血と土埃を朱に染める。
郭嘉は曹操の傍らに立ち、細き指で軍扇を軽くあおいだ。
「この陽が沈む刻こそ、敵を陥れる時。退くと見せ、誘い込むのです」
「偽退の計か!流石は我が陳平だな」
長行と連戦で疲労の色濃いが、曹操の声にはまだまだ覇気が感じられた。
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曹操はすぐさま曹仁に殿を命じ、自分は曹仁に先行する形で楽進、満寵、許褚、夏侯淵を四方に退却させた。
追い討ちを急ぐ李通・劉豹らは、「勝ちたり」と思い込んで曹仁を追撃、包囲の渦に踏み込んでいく。
「しまった――!」
李通は咄嗟に危機を察したが遅かった。
四方から曹操軍の旗が立ち並び、矢雨が襲い掛かる。
その報を受けた孫堅は、即座に決断する。
「陳到!敢死隊を率いよ。俺が自ら先頭に立つ!」
孫堅は陳到と敢死隊の精兵を率いて突進、李通・劉豹の救援に向かった。
だが、その勢いを読んでいた郭嘉はさらに包囲を縮め、孫堅本隊すらも包囲の中に押し込んだ。
鋭い矢が、孫堅の頭上をかすめ、鎧に突き刺さる。
「殿!」
陳到が盾を掲げて庇い、敢死隊が身を挺して矢を受けた。
孫堅が窮地に陥っていたその時、別の方角から向かってくる一団がいた。
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甘寧は蔣欽と共に、精鋭百名を率いて曹操本陣を目指していた。
旗を偽装し、伝令兵を装って曹操軍本陣に潜り込む「偽兵の計」に成功したのだった。
「敵陣、混乱しております!」
と叫びつつ進むその姿は巧妙だった。
だが、本陣の前に仁王のごとき巨漢が立ちはだかった。
「――小細工は無用よ。我が目は誤魔化せん!」
典韋である。
曹操の親衛を束ねる勇士、その瞳は刃よりも鋭かった。
「行け!この大男とは俺様がやる!」
甘寧は刀を抜き放ち、典韋と対峙する。
素早い甘寧の刀さばきに対し、典韋の双戟が唸りを上げ、刃と刃が火花を散らす。
互いに一歩も退かぬ攻防は、まさしく剛と剛のぶつかり合いであった。
そこに駆けつけた蔣欽は弓を引き絞り、典韋の側近・曹安民の胸を正確に射抜いた。
「安民殿――っ!」
典韋の瞳に一瞬の動揺が走る。
その隙を甘寧は逃さなかった。
「これで終いだ!」
鋭い刃が典韋の喉笛を貫いた。
巨漢は呻き、両の戟を振り上げたまま地に崩れ落ちた。
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「曹操討ち取ったぞ!」
曹操の将帥旗を蹴り倒した甘寧が雷鳴のごとき大声を上げる。
倒れた旗を見た曹操軍の兵たちは混乱し、瞬く間に「曹操死す」の噂が広まった。
先行して擬装退却していた曹操は、一度瓦解した士気を取り戻すことが出来ず、郭嘉に護られて退却を余儀なくされた。
その後、混乱する曹操軍を衝くように、張遼の并州騎兵が黒雲のごとく駆け込み、魏延の重騎兵が鋼鉄の塊となって蹂躙した。
「退け、退け――っ!」
夏侯淵や曹仁らも必死に抗ったが、もはや潮流を覆すことは叶わなかった。
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追撃戦は夜まで続いた。
曹操軍は大敗を喫し、郭嘉の奇計は真の退却となるのだった。
定陶の地は炎と叫喚を越え、孫堅軍の勝鬨が夜空に響くのだった。




