【第六十九話】済陰の衝撃
199年晩春 兗州済陰郡
砂塵を巻き上げ、劉豹と法正の指揮する匈奴騎兵が東へ疾駆する。
その行軍速度は驚異的であった。
代え馬を駆使し、昼夜を問わぬ交替進軍により、その速度と持久力は常の倍以上――曹操軍の予測をはるかに凌駕していた。
済陰郡に布陣する曹洪の軍一万は、敵がこれほどの早さで迫るとは思っておらず、完全に虚を突かれた。
「敵襲!旗は孫堅軍のもの!」
匈奴騎兵の怒号と蹄音が地を揺らす。
籠城戦に向けて輸送中の兵糧へ矢の雨が降り注ぎ、一気に火に包まれた。
曹洪は兵糧を捨て、慌てて城へ駆け込むこととなった。
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その報は徐州琅邪国東安城を包囲する曹操の本陣に届いた。
「なんだと……済陰が……!」
曹操は地図を睨みつけ、歯噛みした。
青州兵の包囲は劉備軍をじわじわと追い詰めていたが、糧道を絶たれれば戦は続けられない。
しかも済陰郡が陥ちれば、前後より挟撃を受けることとなる。
「殿、やむを得ませぬ。東安での戦は断念し、済陰の救出に向かわねばなりますまい」
恐る恐る曹仁が進言した。
曹操は机を叩き、無念の声を絞り出す。
「劉備をあと一歩で討てたのだ……だがこのままでは全軍が餓死するわ」
郭嘉が静かに一歩進み出た。
「殿、策がございます。東安城の包囲を完全に解かず、一万の兵を残し、人形や徴発した農民を兵の代わりに立たせ、遠目には大軍が残っているように見せかけます。その間に青州兵を小隊ごとに夜陰に紛れ、ばらばらに済陰へ向かわせるのです」
曹操の目が鋭く光る。
「偽兵の計、か!郭嘉、さすがよ!」
郭嘉は冷笑を浮かべた。
「劉備も孫堅も共に連携している以上、我らが正面から救援に赴けば、挟撃の危険がございます。虚を見せ、孫堅の備えを崩し、済陰で決戦を挑むのです」
曹操は拳を握りしめ、立ち上がった。
「よし、劉備は我が策で泳がせておけ。孫堅との決戦こそ、この戦の勝敗を分かつ!全軍、済陰へ転進する!」
夜の帳が下りる中、曹操軍は人形と偽兵を城外に残し、密かに動き始めた。
その行軍は月の無い夜の闇に溶けて行くのだった。
済陰郡の空を燃え盛る炎が赤々と照らしていた。
孫堅軍は勝利を確信していたが、その背後に迫る大軍の影を、まだ誰も知らなかった。




