【第六話】蕭何と韓信
春の微風が許昌の町を吹き抜け、枯れ草の下に小さな緑を芽吹かせていた。
洛陽の惨禍から逃れた民たちも、ようやく生活の再建に動き出していたが、それを束ねる秩序はいまだ脆く、宙ぶらりの政と軍が混在していた。
孫堅の幕舎にて、荀攸が書をたたむ。
「将軍、ひとつ進言がございます。政の要を担う人物として、潁川の陳羣殿を推挙したく存じます」
孫堅は地図から目を上げ、静かに応じた。
「陳羣……名は聞いたことがある。潁川陳氏の若き俊英と、か」
「左様。陳氏の名門にして、己を驕らず律に通じ、恩を重んじる人物。律令にて乱れを正すに、これ以上の適任はおりませぬ」
孫堅は黙したまま、しばし思案した。
やがて、力のある声音で言う。
「荀攸、お前が『薦ずべし』と申すのなら、俺が自ら赴こう。政は、人を得て成るものだ」
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――許県・陳氏の屋敷
春霞に揺れる庭木の陰から、文を携えた若者が現れた。
その眼差しは澄んでおり、貴種の誇りと学びの慎みを併せ持っていた。
「孫将軍、お迎えできて光栄にございます。私は潁川の陳羣と申します」
孫堅は、にこやかに微笑みつつ、軽く頭を下げた。
「お目にかかれて何より。若き才俊と伺っておりましたが、想像以上の風格……さすがは陳氏のお方です」
「もったいないお言葉です。ですが、将軍がこのように自らお越しくださるとは、どのような御用件でしょうか?」
孫堅は、少しだけ声の調子を落とし、穏やかに語りかけた。
「この地を、民の安らぐ場とするには、剣だけでは叶わぬ。政を司る才が、何よりも必要です。もし、お力添えをいただけるならば、私は心から嬉しく思います」
陳羣は目を伏せ、そしてしっかりと孫堅を見据えた。
「漢の理を取り戻すためならば、拙き身ではございますが、この命、惜しみませぬ。お役目、承ります」
孫堅は、満足げに頷いた。
「……ありがたい。これより、許昌の政務は貴殿に託す。力を尽くしてくれ」
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――朱儁軍本営
午後の陽が落ちかけるころ、朱儁は視線をある若き将校へ向けていた。
乱れがちな兵列を、わずかな声と所作で整える青年。
その佇まいは威圧的ではなく、しかし確かに兵たちを服従させていた。
「……趙儼というのか」
副官が頷く。
「はい。かつて南陽で民兵をまとめ、戦乱の中でも規律を失わぬ隊を築いたと聞いております」
「ふむ……理と信で軍を動かす将か。まさに、韓信の気を感じさせる」
朱儁は思案し、趙儼を呼び寄せた。
「趙儼。貴殿の統率眼と信義を見た。我が副官として、予州軍の律と調を託したい。引き受けてくれるか?」
趙儼は軽く一礼し、静かに答える。
「謹んで、お仕えいたします」
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――将軍府
陳羣と趙儼が一堂に会する場に、孫堅は座した。
「……政には律、軍には秩序がいる。陳羣殿、趙儼殿、共に力を尽くしてもらいたい」
その横で程普が腕を組んでいた。
「これでまた、将軍の御旗の下に、骨の太い柱が増えましたな。俺も刃を磨かねばならんか」
孫堅はふっと笑い、程普に視線を送る。
「程普、お前にはお前の剛がある。お前は刃で民を守り、陳羣殿は律で道を示し、趙儼殿は秩序で軍を固める。――これぞ、大義の形だ」
皆が一礼し、広間の空気がひとつに引き締まった。
春の夜、許昌に漢の太い柱が、静かに並び立つのだった。