【第六十五話】揺れる軍議
199年仲春 兗州僕陽
黄河の風が吹き抜ける城中の広間に、曹操軍の武官と謀臣が集っていた。
卓上には兗州と徐州を描いた地図が広げられ、蝋燭の炎が紙面に揺れる。
伝令が進み出て声を張る。
「報せにございます!孫堅軍四万、許昌を発して洛陽の東方、開封の地に集結する様子。また劉備軍三万余、琅邪に向けて進軍準備に入っております」
ざわめく将兵。
曹操は卓を指先で叩き、静かに言葉を発する。
「二方面から攻め寄せられては、いかに我らとて容易ならぬ。さて――いかに迎え討つべきか」
程昱が一歩進み、落ち着いた声で言上する。
「殿。徐州は地の利薄く、我らが無理に守れば兵糧を失い疲弊いたします。ここは徐州を放棄し、兗州に均等に兵を配すべきにございましょう。兗州は沃土にして守りやすく、黄河・汝水の川筋を利用すれば長期戦も耐え得ます。やがて連合の兵糧も尽き、自然と解けましょう」
荀彧も進み出て、深く頭を垂れた。
「程昱殿の策、流石堅実なものにございます。私も徐州放棄がよいと考えます。加えるならば徐州を割譲することで和を結ぶ事こそ肝要です。孫堅と和すれば、劉備は孤立し、やがて我らにも機が巡ってくることでしょう」
場の空気が和らぐかに見えたその時、郭嘉が口を開き、冷笑を漏らした。
「二人の言、耳には優しき響きなれど、実のところ腰が引けすぎておりますな。徐州を明け渡せば、孫堅の威望は天下に轟き、曹公の覇業は土台から揺らぎましょう。和睦など一時の幻に過ぎませぬ」
荀彧が顔を上げ、鋭く問い返す。
「だが郭嘉よ。孫堅は天子を奉じ、劉備はその盟友だ。彼らを討つは、すなわち朝廷を敵に回すこと。漢の正統を軽んじれば、民心を失うのではないか」
郭嘉は揶揄するように笑った。
「民心など、勝者の旗の下にこそ集うもの。まずは兵力の薄き劉備を討ち、連合を崩す。西より迫る孫堅には遅滞戦で時間を稼ぎ、しかる後に返す刀で斬ればよい」
曹操は両者のやり取りを黙って聞いていたが、やがて地図の上に手を叩きつけた。
「決まった。我は郭嘉の策を取る」
「夏侯惇は陳留に一万を率いて向かい、孫堅を牽制せよ」
「曹洪は同じく一万を率いて済陰の定陶に向かえ。同地は南からの守備の要ぞ」
「荀彧と程昱は僕陽に控え、兵糧の確保と後方の支援を司れ」
「余は夏侯淵らを従え、青州兵五万を率いて、曹仁の元に向かい、自ら劉備を討つ!」
その声は軍議の間を震わせ、将たちは一斉に頭を垂れた。
荀彧も深く拝礼したが、胸の奥底に重い影が残った。
――漢を奉じる者を敵とする。それが曹操様の覇業なのか。
己が理想と曹操の覇道。その隔たりは、日ごとに広がってゆくのを感じずにはいられなかった。




