【第六十三話】策士の影
199年早春 徐州
春の息吹が大地を潤し始めた頃、徐州の地に変事が勃発した。
徐州琅邪国において民衆が蜂起。
旗を掲げたのは徐盛――かつて徐州に暮らし、曹操軍による六年前の大虐殺で一族を失った壮士であった。
彼は同じ怨嗟を抱く者たちを糾合し、「曹賊を討て」と叫んで蜂起、すぐさま数万の民兵が彼のもとに集った。
そして徐盛はただちに劉備へと救援を求めた。
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徐州反乱の報せを受けた劉備は、徐州牧の府邸において幕僚を集め評議を開いた。
文官武将らが口々に事態の急を訴える中、劉備の視線は一人の男に吸い寄せられた。
諸葛亮――未だ若いが、その才智をもって劉備の軍師として仕えていた男である。
その顔は涼やかであり、その表情には驚きを一片も認めなかった。
劉備は呆れと驚きの入り混じった眼差しを向けた。
「……諸葛亮、まさか、おまえの仕込みか」
諸葛亮は羽扇を持ち上げ、口元を隠したまま小さく微笑んだ。
その眼差しには冷ややかな光が宿っている。
「徐盛らの憤怒は六年前より澱のごとく積もっておりました。ただ、その澱を揺さぶる風が必要であったに過ぎませぬ。魯粛殿の江東耳目を借り、私がささやきを加えたまでのこと。殿、曹操を討つ潮目は整いました」
室内は一瞬、静寂に包まれる。
魯粛も諸葛亮の兄・諸葛瑾も、顔を見合わせ深く嘆息した。
「……まったく。諸葛亮には恐れ入るばかりよ。だが、ここまで来たからには策を練るほかあるまい」
魯粛は半ば呆れ、半ば感嘆の声を漏らした。
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やがて方策は固まる。
魯粛は劉備の名をもって曹操に使者を送った。
曰く、『州牧として徐州の民の救援要請に応じるのは義務である』
一方、諸葛瑾は自らが孫堅のもとへ赴き、協力を要請することとなった。
『此度、曹賊を討つ戦に御助力願いたい。漢の威光を兗州、徐州の地に示すため東西より共に攻めこみましょう』
「この戦、代償は大きく見えても、得るものはなお大きいでしょう」
諸葛亮は悪びれもせず静かに言った。
劉備は眉をひそめながらも頷いた。
彼にとって曹操打倒は最大の課題であり、孔明の策に抗う余地はなかった。
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一方、許昌の孫堅のもとにも、徐州の動乱は報じられた。
孫堅はすぐに朝廷へ参内し、曹操に対して『徐州への介入を禁ずる』勅命を発するよう求めた。
廷臣筆頭の楊彪もこれに賛同した。
曹操の座す兗州は許昌に程近く、漢の威光を知らしめる必要があったからである。
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兗州濮陽
荀彧は勅使の来報を受け、曹操の執務室に入った。
太陽に雲がかかり、日差しが陰る中、荀彧は慎重に口を開いた。
「殿、勅命にございます。ここは徐州より軍を退かれませ。漢朝の威信を保つために必要な……」
だが、曹操は眼光鋭く、荀彧の言葉を遮った。
「将兵が血を流して勝ち得た土地を差し出せというか!笑止千万!」
その声音には烈火のごとき怒りと、誰にも屈せぬ意志がこもっていた。
荀彧はなおも説得を試みたが、曹操は首を振り、すでに決意を固めていた。
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かくして、漢王朝の勅命は無視され、曹操は徐州へ兵を向けるのだった。
ここに徐州をめぐる大戦――その火蓋が切って落とされた。
ーー第七章ここに終幕




