【第五十九話】軍議は踊るされど進まず
198年仲冬 鄴
冬の陽は弱く、城郭に射しても大地を温める力は乏しい。邸宅の奥深く、袁紹は病に伏す三男・袁尚の寝所に入っていた。
袁尚はまだ若く、柔和な顔立ちに青ざめた影が漂う。
「父上……外は、雪の気配がいたします」
「うむ、すぐに降ろう。袁尚よ。案ずるでないぞ。父が必ずそなたを治す医師を探してみせる」
袁紹は子の手を取り、声を抑えて励ました。
数万を率いる王者も、この時ばかりは一人の父に過ぎなかった。
やがて侍従が告げる。
「殿、諸将がお揃いにて」
袁紹は深く息を吐き、寝所を後にした。
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政庁の広間。
そこには三派に分かれた幕僚たちが待ち構えていた。
まずは旧来の腹心である逢紀・許攸。
逢紀は殊に袁尚に心を寄せ、その立場を擁護していた。
次に潁川名士の郭図・荀諶・辛評。
名望を誇り、中原の時勢を読み取る鋭さに長ける一派である。
最後に冀州名士、田豊・沮授・審配。
在地の生産力と兵を背景に、現実的な策を重んじる一派であった。
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まず逢紀が袁紹を見つめて言う。
「いまは動くべき時ではありませぬ。三男・袁尚様のご病状も憂慮すべき折、軍を挙げ中原に関われば、家中に乱を招きましょう。ましてや、劉備は帝を奉じる孫堅と組しております。もし彼と争えば、殿の正統性が揺らぎかねません」
許攸もうなずき、声を合わせた。
「冀州の基盤を固め、袁尚様の御快癒を待つことこそ肝要。中原への出兵は時を待つべきでございましょう」
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これに対して潁川名士の荀諶が進み出た。
「いや、いまこそ時機。孫堅・劉備は帝を奉じ、正統の旗を掲げております。もし我らが今、関わらねば、潁川の士大夫は悉く彼らのもとへ集いましょう。出兵こそ、我らの声望を保つ道」
郭図も続ける。
「孫堅・劉備と曹操の対立を衝き、我らが河北の兵を差し向ければ、中原に大義を示せます」
辛評は薄笑いを浮かべて言った。
「孫堅、劉備いずれと戦うかに関わらず、今、中原に打って出ねば潁川士人は失望し、袁家を離れかねませんぞ」
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すると冀州名士の田豊が低く言葉を発した。
「いや、河北はいまだ公孫瓉との戦が終わっておらぬ。彼を屠るまで中原に手を出すは早計。いまは内を安んじ、兵糧を養うべきなり」
沮授も頷いた。
「殿、河北は豊饒にて、十万の兵をゆうに養える兵糧を備えております。ですが公孫瓉を放置して南に兵を動かせば、背を衝かれる恐れがあります。ここは二正面作戦は避け、まず北を定めることこそ肝要と存じます」
審配は声を強めて言い切った。
「そのうえ、後継の御事は一刻を争います。袁譚殿、袁熙殿、袁尚様――いずれを立てるか曖昧なままでは、家中に必ず裂け目が生じましょう」
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広間に沈黙が落ちた。
逢紀は袁尚を案じて外征を戒め、潁川名士は声望維持のため中原出兵を迫り、冀州名士は公孫瓉討伐を優先とする。
三派の利害は対立していた。
袁紹は深く目を閉じた。
父としては袁尚のことが気になり戦に注力出来ない。だが王者としては河北を統べ、中原へ進出する大義を求められている。
「……時は、なお熟さず」
その一言に、諸将は言葉を呑んだ。
外は冷え込み、やがて雪が落ちてくる。
袁紹の胸中に去来するのは、父としての愛と、王者としての迷い――その相克であった。




