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【第五話】黄巾の影、再び

風が吹いていた。

春を迎えた汝南の大地は、一面の麦の芽がそよぎ、かつての戦乱が嘘のように平穏であった。

だが、その風の奥に、孫堅は微かな血の匂いを感じ取っていた。


「黄巾、再び蜂起せり――と、申されましたな?」


予州・汝南の軍議の間。

報告を終えた斥候の男が土塗れの顔を伏せる。その者に荀攸が問うた。


孫堅は静かに手を組んだまま言った。


「義と称して民を煽り、兵を集めたもの達。彼らが元より漢を憎むならば、武をもって鎮する他はない。だが……」


その続きを言おうとしたところで、荀攸が口を挟んだ。

「ですが、彼らの多くは、かつて都で焼かれ、家を失い、国を見限った者たちでありましょう。情をもってすれば、剣を抜かずとも従わせることができましょう」


孫堅は頷く。

「荀攸殿の策、試してみるに足る」


そのとき、朱儁が重々しく立ち上がった。

彼は老いてなお鋭い眼光を放ち、かつて黄巾を討った漢の名将としての風格を漂わせる。


「黄巾とは、もとは飢えと絶望の末に集った民である。もしも義によって再び旗を掲げたのならば、これをただの賊徒と侮るなかれ。才と仁と、そして法をもって臨むべし」


荀攸は小さく頷くと、巻物を広げて語った。


「まず、我らが糧をもって彼らを招く。そして、法をもって保護する。これに応じた者には労役免除、農地の分与を行い、軍籍に編入する」


「降者を兵とする、か?」

程普がいぶかしげに眉をひそめた。


「彼らをただの賊と見るならば、敵でありましょう。しかし、義によって集った者ならば、志を抱いた兵となるはず。彼らの中には必ず、再び国を信じたい者もおりましょう」


その言葉に、孫堅は大きく頷いた。


「よい。荀攸殿の策、試してみよう。……だが、諸将には不安もあろう。ゆえに、この役目、志ある若き者に任せたい」


彼の視線の先には、一人の若武者がいた。


「陳到、参れ」


---


陳到――汝南の生まれ。若くして家族を賊に殺され、復仇を誓って軍門に下ったが、孫堅の寛容と正義に触れ、怒りではなく「救い」に生きようと決意した男である。


その陳到が、白衣をまとい、文を抱えて黄巾の根拠地のひとつへ向かった。


彼の姿に、黄巾の兵たちは剣を向けたが、彼は怖れず叫んだ。


「我が名は陳到! 汝南の子なり! 我が主、孫将軍は義をもってそなたらを迎えんとす! 人の世に戻り、共にこの国を立て直そうではないか!」


その言葉に、一人、また一人と、兵たちは剣を下ろした。

彼らの瞳には、失いかけた「信じる心」が宿っていた。


数日後、数百の黄巾残党が、陳到の導きで汝南城の門前に列をなし、投降を願い出た。



---


本営にて、将たちの会議が開かれる。


「黄巾を受け入れるなど、理想に過ぎぬ!」

程普は大声を上げた。


「民を惑わし、国を滅ぼしかけた賊どもだ。奴らが再び裏切れば、我らの首が飛ぶ」


だが、孫堅は微笑し、こう言った。

「だからこそ、信じてみようではないか。民とは、導かれてこそ国を成す。剣に怯え、火に焼かれた者たちに、再び義を示すのだ」


その言葉に、程普は沈黙したまま席を立ち、演練場へと向かった。



---


次の日、

黄巾の一団を率いていた首領格・何儀が、投降者を快しとせず、陳到や投降者の一団に襲いかかってきた。


「偽善者めが! 裏切り者共々血祭りにあげてくれるわ!」


陳到は剣を取るも、数に押され窮地に陥る。

だが、そこに現れたのは――程普であった。


「若造、死ぬのはまだ早いぞ」


程普の鉄脊蛇矛が陳到に向かう刃をはね除ける。


「黄巾の徒を正道に導いた小僧の命、たやすく奪えると思うなよ。名乗れ」


「黄巾将・何儀!」


「孫将軍配下・程普!」


名乗りが終わると同時に、二人の間に火花が散った。


---


鉄脊蛇矛の先端が陽の光を受けて煌めく。

何儀は左右の曲刀を振りかざし、唸るように突進する。


「老いぼれが! 今さら武名など――!」


「老いは剣を鈍らせぬ。だが、お前の怒りは、力を濁らせる」


程普の矛が風を切る。

それは蛇のようにしなり、獣のように唸り、次の瞬間、鋭く何儀の膝を狙う。


「――ぐっ!」


何儀が刀で弾こうとするが、矛の柄が先に喉元を跳ね上げた。

よろめいた何儀に、程普は低く跳躍し、斜めに矛を振るう。


矛が唸り、蛇の尾のようにうねって何儀の鎧の隙間を貫く。

悲鳴ひとつ上げず、何儀の体がぐらりと傾き崩れ落ちた。


程普は矛を引き、地に突き立てて言った。


「人を導く者は、言葉だけでは足らん。剣も持て。剣なき正義は、正義にあらず」


後ろに立ち尽くす陳到へ、血の匂いを背にしたまま静かに言う。


「お前が民を導くなら、俺がお前を守ってやる。だがそれは、俺が死ぬまでだ」


陳到は膝をつき、深く頭を垂れた。


「副将として、そなたと黄巾の徒、共々鍛えてゆく。……その代わり、俺の背を守れ。それが、お前の義だ」


陳到は、涙を堪え、深く頭を垂れたままだった。



---


翌朝、孫堅は二人の報告を聞き、静かに言った。


「敵に刃を振るうは易し。己の恐れと対峙し、導くは難し。だが、それを成したお前たちは、もはや新たな道を作ったのだ」


その言葉には深く頷いた。


程普は肩をすくめながらも、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。


こうして、孫堅軍は黄巾残党を再編し、これを「汝南兵」として正式に組織する。


その統率は程普と陳到。

「武」の剛と、「仁」の導きが、ここに融合された。



---


春は終わり、夏の気配が訪れようとしていた。


荀攸はその変化を見届けながら言った。


「兵と政が整い始めましたな。あとは――人の器が要となる」


朱儁は空を仰ぎ、呟いた。


「ならば、我らが蕭何を――探しに行こうかのう」

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