【第五十八話】曹操の焦燥
198年初冬 濮陽
冬の風が城郭を抜け、冷たい砂塵を舞い上げていた。
曹操は広間の地図の前に立ち、徐州を指で押さえつけ睨んでいた。
「……またしても、孫堅と劉備に先んじられた」
彼は二人が呂布を討ち果たし、自らを撤退せしめた時から苛立ちを募らせていた。
徐州には何度も遠征しており、本来であれば自分が手中に収めるべき土地であった。
だが現実には劉備が民心を掴み、盤石の政を敷き始めている。
郭嘉が静かに進み出た。
「主公、焦りは禁物にございます。徐州は荒廃しており劉備はその再建に手を取られましょう。今こそ我らは兗州を固め、時を待つときでございましょう」
程昱も加えて言った。
「袁紹の動向も注視せねばなりませぬ。河北は豊饒、兵糧と兵馬に溢れております。いずれ南下してくれば、大きな脅威となりましょう」
曹操は唇を噛んだ。
「わかっておる。だが――筵売りなんぞに遅れをとるのは我慢ならん!何か策を講じねば」
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その日の夜、曹操は密かに書簡をしたためた。
宛先は冀州・袁紹。
「劉備は仮初めの義を唱え、民を惑わす。放置すれば必ずや乱世の禍根となるであろう。今、貴殿と手を結び、共に徐州を討たんことを望む」
文を読み上げた荀彧が眉を寄せた。
「殿、袁紹は己が威を誇り、帝を顧みぬ男。盟を結べば、必ずや彼の思惑に絡め取られましょう」
曹操は椅子に腰掛け薄笑いを浮かべた。
「ふふふ……よいのだ。袁紹など恐るるに足らぬ。いま必要なのは時だ。奴の力を利用し、劉備には時を与えず、わしは力を蓄える。やがては袁紹も劉備も、わしの掌の中に収めよう」
その目には、焦燥と野望とが入り混じった光が宿っていた。
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書簡は冀州へと発せられ、袁紹は病に伏す三男、袁尚を見舞いながら、曹操からの書状を受け取っていた。
「曹操が、我に援軍を求むるか……」
病床の息子を見やり、袁紹はしばし沈黙した。
「ふむ、わしの独断では決められぬな。明日衆議にかけるとするか。我が袁家は河北を統べる身であり、慎重に慎重を重ねて対処せねばな」
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こうして、曹操の思惑と供に放たれた書簡により、新たな嵐が起ころうとしていた。




