【第五十五話】幕間 赤兎の主
198年晩夏 徐州下邳
下邳は残暑の日差し強く、陽炎が揺れる中、戦塵の残り香がなお街の隅々に漂っていた。
そんな中で下邳城の中庭には珍しい熱気が満ちていた。
その中心に――ひときわ美しい馬が立っている。
紅蓮のような毛並み、燃えるような鬣。
呂布の愛馬、赤兎馬である。
---
「……これが、あの“赤兎馬”か」
李通が感嘆の声を漏らす。隣では昌豨が腕を組み、しげしげと馬体を眺めていた。
「たしかに、ただの馬じゃねえな。俺達を値踏みしてやがる」
二人の言葉を聞き孫策が一歩前へ出る。
「ならば俺が乗ってやろうじゃないか。父上の軍中で、この馬を扱えるのは俺ぐらいのもんだ。」
韓当が慌てて制した。
「若、無茶をおっしゃるな。あのような暴れ馬など危のうございます」
「韓当!子ども扱いするな!」
孫策が顔を赤らめると、周囲から笑いが漏れた。
太史慈も苦笑いを浮かべながら、
「俺も試してみよう。武をもって名を立てることを志すなら、こういう機会は逃せぬ。」
劉備が制した。
「太史慈待った!ここはこの劉備に場を仕切らせてくれ。赤兎馬は一頭しかおらんし、順番が大事だろ。李通殿、まずは言いだしっぺの貴殿から。」
---
最初に挑んだのは李通。
並の馬ならば指先ひとつで制する彼が、赤兎馬に跨ろうとした瞬間――
「ぐぉっ!」
烈風のように赤兎馬が跳ね上がり、李通の身体を軽々と宙に放った。
周囲にどよめきが走る。
昌豨が笑いながら手を挙げた。
「面白ぇ! なら俺が――」
だが次の瞬間、昌豨も見事に放り飛ばされ、転がりながら「こりゃ無理だ!」と呻く。
続いて孫策、太史慈、徐晃、朱桓と次々挑むが、誰ひとりとして鞍に座ることもできない。
赤兎馬は嵐のように暴れ、誰の手綱も許さなかった。
「……やはり、この赤兎馬は呂布将軍にしか心を許さぬのか」
そう言ったのは、高順であった。
降伏後に下邳に留め置かれていた。
その隣には張遼の姿もあった。
劉備が問う。
「高順、張遼。あんたらは付き合いも長いし、赤兎馬も従うんじゃないか?」
高順は静かに首を振る。
「今は劉備様に忠を尽くす身ではありますが、呂布将軍は我が旧主。その愛馬は某には身に余ります」
「この馬に跨る資格があるのは、武を極めし漢のみかと。俺はまだ及ばない」
張遼も眩しそうに赤兎馬を見つめていた。
---
その時、遠くから鎧の音が近づいてきた。
揚州より戦勝祝いのため到着したばかりの関羽である。
「義兄者、何やら騒がしいが、どうされた?」
孫策がむくれたまま答えた。
「呂布の赤兎馬だが、誰も乗れんのだ」
肩を竦める劉備に一礼し、関羽は興味深げに赤兎馬へと歩み寄る。
赤兎馬は最初、鼻息を荒げて関羽を睨んだが――
関羽は静かにその鬣に手を触れた。
「……噂に違わぬ名馬だな。幾多の戦場を駆け抜けてきた風格がある」
その声音は威厳があるが、慈愛にも満ちていた。
すると、赤兎馬は嘶くのを止め、まるで旧主を偲ぶかのように目を細める。
全員が息を呑む中、関羽は鞍に手を掛け、ひらりと跨った。
一瞬、場が凍る。
だが赤兎馬は暴れるどころか、静かに歩みを進めた。
その姿はまさに人馬一体。
徐晃が思わず声を上げる。
「……圧巻だな!これ程見事に乗りこなすとは」
張遼もまた深く頷いた。
「ここにも俺が目指す武の頂がいた」
孫策は唇を尖らせて腕を組む。
「……あれじゃ誰も敵わねぇな。」
韓当が苦笑する。
「若も、いずれはあのような風格を身につける日が来よう」
孫策はむすっとしながらも、小さく頷いた。
---
やがて関羽は赤兎馬の背を下り、そっと首を撫でた。
「良い馬だ。共に中原を駆ける日はもう少し先になろう。今は休み、共に英気を養おうぞ」
赤兎馬は小さく嘶き、関羽の背を見送る。
その姿は、再び主を得た戦馬のそれであり、誇り高かった。
陽は西に傾き、赤い光がその鬣を照らしていた――。




