【第五十一話】掎角の計
198年盛夏 徐州下邳城
飢えと疲弊が城内に満ちるなか、呂布の焦燥は日に日に募っていた。
近頃の彼は酒量が増え、酔えばしばしば武器を振り回し、近習や侍女を怒声で追い散らしていた。
ある夜も、酒杯を煽るや剣を掴み、
「俺を愚弄するか!」
と叫んで近臣を斬ろうとした。
血の気の引いた近習たちは震え上がり、やがて「飛将軍」への忠誠は次第に薄れていった。
---
翌日、城楼から外を望んだ陳宮は、孫堅・劉備の連合軍が密に布陣し、いまや包囲の輪を縮めつつある光景を目にした。
「……掎角の計、これしかあるまい」
軍議が開かれると、陳宮は提案した。
「数度の殿の出陣の際に、敵勢は殿を捉えるために集まって参りました。これを利用し、掎角の計を行おうと思います」
呂布が続きを促す。
「殿が出陣なされば敵は必ず応じましょう。そこへ侯成殿達が打って出れば、敵を挟撃できましょう。この策を使えば、あわよくば出陣してきた孫堅や劉備をも討ち取れるやもしれませぬ」
呂布はその策に頷いたが、やがて眼を細めて言った。
「いや、先に打って出るのは俺に扮した侯成とする。その後に俺が自ら主攻を仕掛ければ、敵は混乱し、一気に崩れよう」
陳宮は眉をひそめたが、誰も異を唱えられず、将たちは平伏して命に従った。
---
その夜。
陳宮は密かに呂布に呼ばれた。
「陳宮よ……俺は侯成を囮とし、その隙に北門から脱するつもりだ」
陳宮は思わず膝を乗り出す。
「殿!それでは侯成も兵も見捨てることになりますぞ!飛将軍は天下無双の武を誇るお方。それが、部下を利用して保身を図るなど――」
呂布は盃を握りしめ、澱んだ眼で陳宮を睨み付ける。
「だまれ!まずは生きのびねばならぬ。余のため死ねるなら侯成も本望であろう」
その言葉に、陳宮の胸は冷え切った。
――これが、我が仕えてきた男の真の姿か。
失望と自らの不明を悔いる思いに苛まれながらも、陳宮はただ黙して従うほかなかった。
---
数日後、ついに『掎角の計』が実行に移された。
南門より侯成が兵を率いて打って出る。
「飛将軍ここにあり!」と声を張り上げ、呂布の旗を掲げて敵陣へと突進する。
南門を守る劉備軍は「呂布出陣!」と驚き、応じて戦列を動かした。
その頃、呂布は密かに北門へ移り、妻子や側近を伴い馬に跨る。
「再起のために道を開く!」
---
南門での激戦の最中、北門から突如、呂布の騎兵が風のごとく飛び出した。
鉄蹄は地を震わせ、矢雨を突き破り、馬防柵の一角を打ち砕く。
「さすが飛将軍!」
従う兵の口から歓声が上がる。
呂布はその勢いのまま孫堅の陣営に雪崩れ込み、槍を振るって駆け抜ける。
刃は閃き、兵は斬り伏せられ、陣は瞬く間に混乱へと沈む。
「突破できた……!」
策の成功を確信した刹那、呂布の眼前に地面が迫った。
赤兎馬が悲鳴を上げて崩れ落ち、視界は暗転していく。
「……なにゆえ……」
呂布の雄姿は戦場から突如として消えるのだった。




