【第二話】帝の行方
長安。
それは、かつて秦が都とし、前漢の繁栄を築き上げた大地である。
そして今、再び帝がその地に遷った――董卓の手によって。
荒廃した洛陽を見捨て、帝室は都を西に移すこととなった。
この決断が、いかに多くの者の心を凍らせたか。
それは、洛陽に残された瓦礫が何よりも雄弁に語っていた。
「帝が……西へ行かれたと?」
焦げた都の残照の中、孫堅に問われた朱儁は風に衣をなびかせながら肩を落としていた。
その顔には、老将としての深い哀しみと、将としての忸怩たる思いが同居していた。
「何故だ、朱儁殿。帝があの董卓のような輩の言いなりになるしかないのか……」
「帝室は、今や剣の護りなくしては存在できぬ。
董卓のような者でも、その剣を持っていた――ただそれだけのことだ」
朱儁は、もはや老いを隠しきれぬ体でありながら、その瞳はなおも狼のごとく鋭く光る。
「俺は思うのだ、孫堅。
もし、帝がこの地に残ることを望まれていたならば、果たして、誰がそれを叶えてくれただろうか?」
孫堅は、黙してその問いを聞いていた。
答えは分かっている。誰もいなかった。
前の反董卓連合軍には正義を語る者は多くいたが、血を流して帝を守ろうとした者は、ほとんどいなかった。
「それでも……俺は剣を抜く」
孫堅は玉璽を胸に抱き、ひとつ、深く息を吐いた。
「漢の天子が、盗賊の如き男の庇護のもとで震えているのを、俺は見過ごすわけにはいかんのです」
朱儁の眉が動いた。
それは、喜びか、憂いか――いや、恐らくはその両方だった。
「ならば、行くのか」
「……ああ。長安へ」
「一将軍の身で、帝を奪還するか」
「一将軍でも、心がある。剣がある。兵がいる」
その時、朱儁は静かに微笑した。
まるで、古い時代の英傑を見ているかのように。
「孫堅よ。貴殿が行くのならば、我も共に行こう。
この老骨、まだ役には立つはずだ」
「朱儁殿……」
「心して聞け、孫堅。
この朱儁が最後の一日まで、貴殿の剣となり、盾となろう。前の誓いの通りにな。」
風が吹いた。
焦げた瓦礫の香りが消え、空が晴れ、白月の光が二人の男に降り注いだ。
一人は、乱世の炎を恐れぬ若き虎。
一人は、帝を見守り続けてきた老獅子。
この日、洛陽にて二つの魂が結ばれた。
それは、やがて中原を揺るがす義の軍の胎動であり、漢室匡輔の大いなる第一歩であった。