【第十話】炎の兆しー裂けゆく盟ー
192年 正月/潁川郡・昆陽城
風の冷たさが一段と増した朝――
孫堅は、許昌の南西、南陽郡との境にある昆陽の城壁の上に立っていた。
剣を帯びたまま、南の空を見つめていた。冬晴れの空に薄くかかる雲は、まるで裂けゆく天下の前兆のように、不吉な形を描いていた。
「来たか、玄鴉の報せが――」
黒衣の報告官がひざまずく。
朱儁配下の諜報機関「玄鴉」の精鋭たちが今も、各地を奔走している。
「袁術、南陽を拠点に潁川へ向けての進軍の準備を開始しております。」
孫堅の横で、朱儁が目を閉じた。
「義なき戦を……」
孫堅は深くうなずくと、腰の佩刀を一度握りしめた。
「我らに逃げ道はない。されど、義は我らにあり――ならば、立ち向かうのみだ」
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「兵力に劣る現状では、袁紹殿、曹操殿より援軍を請うべきです」
朱儁の進言に、孫堅は頷いた。
ただ戦えば勝てるほど、易い相手ではなかった。
援軍要請の使者は、朱儁の推薦により、潁川の名士・杜襲が選ばれた。理知に優れ、礼を弁えるその若き俊才は、孫堅の誠を言葉にのせて使者として赴いた。
まもなく、袁紹と曹操からの使者が昆陽に到着した。
「援軍、受諾の由。両将ともに、義の戦と認めたり」
朱儁は深く息をついた。
「天も、漢も、まだ我らを見捨ててはおらぬようですな」
だが――その朗報がもたらされた直後、第二の影が忍び寄る。
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南陽、袁術の軍営。冷気に包まれた帳中で、陰に沿い兵書を広げている男、楊弘がいた。
「潁川の叛徒どもが、袁紹・曹操に援軍を求めました」
蝋燭の灯りの向こうに、錦衣をまとった男――袁術が座していた。
「愚かなことよ。正々堂々と打ち破ってやろう」
「……閣下は覇王となられる御方。将の戦ではなく、王の戦をされるべきかと。」
楊弘が細く笑った。
その口元には毒のような策謀が宿っていた。
「こちらから剣を振るわずとも、彼らの背後を削ってやればよいのです。袁紹には公孫瓚を、曹操には黒山賊と陶謙をけしかければ――援軍など、夢のまた夢」
「それで、奴らは孤立するというわけか?」
「はい。公孫瓚には、冀州北辺の利をちらつかせれば動きます。黒山の張燕には金と女、陶謙には……潁川の地に触手を延ばす口実を与えましょう」
袁術は唸った。
「よい。まこと、毒蛇のような心よ。……いずれは、我が国の丞相として迎えるべき男だな」
楊弘はただ一礼し、言った。
「我が計、たちどころに成りましょう。」
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数日後、昆陽に届く悪報の連鎖――
まずは、袁紹が公孫瓚の北伐により、冀州に釘付けとなったこと。
続いて、曹操の背後に黒山賊が侵入し、陶謙が東郡の防衛を脅かすよう動き出したこと。
荀攸は地図を睨んだまま、静かに言った。
「これで袁紹殿も曹操殿も、援軍を出す余裕はなくなりましたな……見事な策です。おそらく謀士楊弘の手によるものかと。恐るべき男です」
朱儁は憤りを隠さなかった。
「ならば……我らのみでこの地を守るほかないか」
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その日の夕刻――孫策が戦報を携えて駆け込んできた。
「父上、袁術軍、南陽より潁川に向けて進軍を開始! 先鋒は紀霊。陳蘭、楽就、雷薄、李豊……いずれも手練れの猛将を率いて袁術自身も出兵したとのこと!」
孫堅は静かに座したまま、眼を閉じた。やがて、重々しい声が発された。
「……援軍は、来ぬ。我らのみでこの潁川を守る他ない」
荀攸が進み出る。
「我らには、兵4万。ですが、それ以上に民の信と、義がございます。策を練り、迎撃の準備を進めましょう」
黄蓋、程普、陳到、李通、呂蒙、魏延――
それぞれが軍務の割り当てを受け、韓当率いる強弩兵は城外の丘陵に布陣されることが決まった。
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その夜、昆陽の本陣には、武将たちが居並んだ。
蝋燭の揺らぎが照らす中、孫堅がゆっくりと立ち上がる。
「兵は少ない。援軍も来ぬ。されど我らには、守るべき民がいる。義をもって剣を抜く覚悟がある」
「我が命、予州の地に在り。退かず、怯まず、討ちて捨つべし!」
将たちが一斉に声を上げる。
「おう!」
朱儁は、ふと傍らの文机に目をやった。
そこには、荀攸の筆で綴られた書状の草案があった。宛名は――「陳王 劉寵殿」
(劉氏の縁。願わくば、この戦にもう一つの光を――)




