【第九話】予州に旗を掲ぐ
191年 初冬
冬の風が許昌の城郭を渡り、政庁に立つ大樹の葉を震わせる。
朱儁と荀攸が広げた文机の上には、寿春から届いた一通の密書が置かれていた。
差出人は、袁術。内容は、簡潔だった。
「荊州襄陽の劉表を討て。漢室を僭称し、南方を脅かす者なり。疾く兵を発し、汝南より討伐せよ」
読み上げた朱儁の声音は低く、苦々しさが滲んでいた。
傍らの孫堅は静かに座したまま、言葉を発しない。
やがて、荀攸が前に出た。
「劉表は景帝の末裔。正統たる漢の宗室です。たとえ地方に割拠しているとはいえ、これを討つは“漢室匡輔”を掲げる将軍の道理には背きましょう」
孫堅の眼が微かに揺れた。
「……荊州を討つ、か。袁術は、我が心を量ることすらせぬか」
拳を握ったまま、ゆるりと立ち上がる。洛陽で燃えた都、荒れ果てた陵墓、その無念を思い起こしていた。
「我が剣は、天下を奪うためのものではない。漢を支えるためにある。宗室を弑すなど、もってのほかだ」
その日のうちに、孫堅は袁術からの命に対して拒否する旨の通達を寿春へ返送した。
同時に、政庁内で独立を宣言する布令を定めた。
「予州の民の安寧は、我等自身で手にするものぞ。今より我らは袁術軍閥としての従属を断ち、自身で道を切り開いていくこととする。」
すぐさま動いたのは、正統性の確保と諸勢力との外交であった。
「陳国の劉寵殿下に書状を。宗室としての威光を借り、袁術からの侵略に備える」
朱儁が言うと、荀攸は即座に筆を取る。
「皇族への忠誠を示し、予州防衛の正統性の確保を目的として、予州牧への推挙と、陳国の精鋭と謳われる強弩兵の貸与を願います。」
その三日後、陳国から劉寵の使者が到着した。
「劉寵殿下は、『将軍の洛陽での陵墓修復には漢室の一員として感謝している。予州牧への推挙は、朝廷に対して早急に行うこととする。また逆賊袁術討伐のためなら、喜んで強弩兵五百と弩作の技術者を送りましょう』とおっしゃっておられました。」
孫堅は深く頷いた。
「ありがたきこと。この恩、忘れませぬ。」
同じ頃、もうひとつの策が静かに進んでいた。
荀攸は、自身の一族――潁川荀氏の人脈を用い、冀州と兗州に書を送っていた。
荀彧には、東郡太守としての任に就いたばかりの曹操へ向けた書状を。
荀諶には、冀州の袁紹へ、袁術との対立を煽る密使を。
内容はいずれも、「予州は漢室に忠誠を誓い、袁術の専横に抗す。曹操・袁紹の諸侯が予州を敵とせず、共に漢室を守る道を選ばれんことを願う」というものだった。
夜。政庁の屋上から、孫堅は星を見上げていた。
隣に立つ朱儁が、ゆるく息を吐いた。
「道は遠く、夜は寒い……しかし、将軍が選んだこの一歩は、乱世を変える始まりとなりましょう」
孫堅は短く笑った。
「乱世は、誰かが歩まねばならぬ。ならば、我が足で踏みしめよう」
「その道の先に、いずれ、漢室の再興があることを」
そして、星の下に許昌の町灯りが揺れた。
だがその灯火の向こうでは、寿春の袁術が激怒の声を上げ、予州侵攻の準備を始めようとしていた。
そして冀州・兗州、南陽、長安――群雄たちの視線が、静かに孫堅の予州へと向けられ始めていた。




