【プロローグ】炎の予兆
中平元年――西暦184年。
天は裂け、地は哭き、黄巾の乱が天下に炎を撒いた。「蒼天已死」と高らかに叫ぶ張角の黄旗は、衰えきった漢王朝の脆さを世に知らしめる口火となった。
それでも、まだ漢の命脈は尽きてはいなかった。
その火を護ろうとする者がいた。
朱儁――字は公偉。会稽郡の出身。
若き日に儒を学び、義を重んじ、世に出てからは黙々と政と軍を修めてきた男である。
齢三十五。すでに戦場の土を踏み慣れた将軍でありながら、その眼にはなお、若き志士のような輝きが残っていた。
潁川。
この地は今、黄巾賊の拠点の一つと化していた。
皇帝の勅命を受けた朱儁は、数万の兵を率いて包囲に当たっていたが、敵は地の利を活かし、戦況は膠着していた。
焦げた麦畑の向こうに煙が立ち昇る日――
その静けさを破るように、南方から轟く馬蹄が響いた。
「伝令! 呉郡より孫堅将軍、援軍として到着!」
陣中に声が響くと、朱儁は静かに眉を上げた。
「孫堅――文台といったな。長沙の乱を討ったと聞く。まだ二十九になったばかりか……」
やがて土煙の中を駆け上がってきた騎兵の列は、紅き軍旗を風に揺らしながら、整然とした進軍を見せた。
その先頭に立つ一騎の武者、その男こそが――後に中原を席巻することとなる若き将、孫堅であった。
鎧は使い込まれて鈍く光り、背には虎の意匠が織られている。
だが、何よりも印象的だったのはその眼――燃えるような、だがどこか静謐な光を湛えた双眸だった。
「この孫堅、賊徒が漢を辱めていると聞き、黙しておれず兵を起こしました。
潁川を討つべく、先遣をもって馳せ参じた次第。」
朱儁はその声を聞きながら、しばし沈黙した。
年若い――されど、この場に臆する色も、功を誇る気配もない。その言葉には、義だけがあった。
「呉郡の若将よ、その志、確かに聞いた。共に漢を支えようではないか。」
孫堅はうなずいた。
「朱儁将軍、敵は北東の林に伏しております。我が兵を囮に使い、貴軍がこれを討てば、潁川は開けましょう。」
その進言は地勢を見抜き、兵の動きを熟知したものだった。
朱儁は思った――これはただの若武者ではない。
志と才とを併せ持ち、そして何より、この乱世の中にあって「正しきもののために剣を執る覚悟」を備えた男だ、と。
──
その夜、林は炎に包まれ、黄巾の拠点は孫堅の策により一気に瓦解した。
戦後、朱儁は孫堅を自陣に招き、盃を交わした。薪がはぜる音の中で、
「孫堅、そなたの剣の先にあるものは何だ。名か、利か、それとも……覇か。」
孫堅は盃を見つめながら、ゆるく首を振った。
「都が……洛陽が、かつての威を失い、廃墟のように朽ちていくのを見ました。だがあの座には、まだ天子が座しておられる。ならば、拾い上げねばならぬ。――誰かが、火の中から。」
その言葉に、朱儁は深く目を閉じた。
彼自身、漢に絶望しかけていた。
だが、今目の前にいるこの若者が、それでもな「漢室匡輔」を掲げるならば――
「ならば、共に行こう。そなたが剣ならば、我はその盾となろう。」
その日交わされた言葉は、書にも記されず、碑にも刻まれなかった。
だが、この出会いこそが、やがて漢の再興を信じた者たちの物語の始まりであった。
そして孫堅はただ漢の火を守らんとするために、戦場を駆け抜けてゆくこととなる――。
本作は、三国志の序盤で白露のごとく消えてしまった孫堅の存命を想定した仮想戦記として、少しでも読者の方の心に残る物語になればと思い、執筆を始めました。呼称は分かりやすさのためにも基本的には姓名で書きます。できるだけ分かりやすくなるよう心掛けております。
初投稿で至らない点もあるかと思いますが、温かく見守っていただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。