第8話 香殿の余韻と、仕掛けた男の朝
(左大臣家ver)香は恋を焚かぬ。ただ、落ちるように導く。
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆序章 八 登場人物
▸白雪:左大臣家三女。内大臣家に嫁ぎたての姫。香で心を伝えようとする。
▸兼雅:若き内大臣。真面目で優しい。新妻にどう接していいかわからず、戸惑いながらも惹かれていく。
▸ 実房:左大臣で三姉妹の父。沈黙の香で家を守る“計算の男”
▸ 宵羽の女御:左大臣家の長女。遙和東宮の母であり、紫鳳と白雪の姉。
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白雪は、いつもより早く目覚めた。
寝殿の天井には、まだ夜の気配が淡く残っている。
隣には――兼雅。
彼は深く眠っていた。
その寝顔を見つめながら、白雪はそっと指先で、彼の髪を撫でた。
「夢では……なかったのですね」
香殿には、まだ昨夜の香がほのかに残っていた。
衣は整えたまま。けれど、心だけが、もう離れられない場所にあった。
静かに障子を開け、朝の光が差し込むと、
兼雅が目を覚ます。
「……おはようございます」
その声には、いつもと違う熱がこもっていた。
白雪は、わずかに目を伏せた。けれど、その頬は淡く紅を差していた。
ふたりは、言葉を交わさなかった。
でも、昨夜を否定するような“空気”は、どこにもなかった。
視線と、香と、静かな微笑みだけが、
朝の光に溶けていた。
◇
白檀の香が静かに漂う御座所。
御簾の向こうに、女御・宵羽の柔らかな声が響いた。
「父上……わざわざ宮中までお越しとは、いかがなさったのです?」
左大臣・実房は、その問いに何も答えず、ただ手元の茶をすする。
けれど、その目は笑っていた。
「娘の様子を見に来るのに、いちいち理由がいるものか」
その声もまた、どこか含みを持つ。
「……白銀香殿の香、変えていらしたのでしょう?
丁子が少し強く、落ち着く香になっていたと、内侍から聞きました。」
実房は、ほんのわずかに目を細めた。
「そうか。あの子の香は、やはり“咲いた”か」
「兼雅様は……お優しい方ですわね」
その声に、ほんの少しだけ笑みが混ざる。
妹に、姉としてではなく“女御として”向き合う、微妙な距離感。
「香で恋を咲かせることは、策ではない。
だが……恋を咲かせる導火線に、香を選んだのは、私だ」
宵羽が、御簾の奥で静かに呟く。
「……やはり父上は、“香で政を進める”おつもりなのですね」
実房は、何も答えなかった。
ただ、もう一口だけ茶をすすり、
香の残り香の中に溶けていくように退出した。
宮中の女御が、御簾の奥で感じた香は――
策か、祝福か。
けれどそれが“咲いた”という事実だけが、
彼女の胸に静かに残った。