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第5話 名乗れぬ母の香が、夜に満ちる

 香の母としての静寂 (左大臣家ver)

*-----------------------------*

(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。

 宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。

 あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)


◆序章 五 登場人物

 ▸ 紫鳳しほう中宮:亡き東宮の妃。御簾の奥から息子の未来を祈る母。

 ▸ 蒼倉そうくら宮:帝の御前に出るその夜を迎える。

 ▸ 実房さねふさ:紫鳳の父。香をもって政を護る策士。

*-----------------------------*



左大臣・実房は、娘の焚いた香に気づいていた。

その香りの流し方、配合――

“中宮”としてのものではない。

そこにあったのは、ただの一人の“母”の手のぬくもりだった。


本来なら、策士である父として止めなければならない。

香はただの趣味ではない。

香は文だ。武器だ。時には、政そのものだ。


けれど実房は、ただ静かに言った。


「……この母にだけは、策など通じぬ」


声は小さく、誰にも届かない。

ただ一人、香炉の煙がそれを受け取った。


紫鳳の祈りは――

あまりにも優しすぎて、言葉では壊れてしまう。

ならば、香でしか語れない。


御簾の奥。

香の炎が、ゆらゆらと灯る。

紫鳳は、その前に静かに座していた。

目を閉じて、けれど遠くを見ているような表情で。


「今宵、あの子が帝の御前に出る……」


その夜、蒼倉はふと庭に出ていた。

白い衣の裾を風に揺らしながら、

夜の空を、黙って見上げている。


まだ満ちきらない月の光が、彼の肩をやわらかく照らす。


「……どうしてだろう。涙が出る……わからないのに」


ぽたり、と雫が落ちた。


誰の名前も思い出せない。

記憶にも、残っていない。

でも――この香だけが、確かに心を撫でた。


それは、母の香だった。


紫鳳は香の配合を変える。

青柚子に、もうひとつ――

蒼倉が幼い頃、眠る枕元で焚いていた香を忍ばせる。


誰にも気づかれず、書き残されることもない。

ただ一つの“香の記憶”。


「……あの子の袖に、届きますように」


煙が立ち上る。

その白く細い線の中に、亡き東宮の面影が一瞬、よぎる気がした。


紫鳳は名を呼ばなかった。

呼んでしまえば、泣いてしまう。

中宮は――涙を許されない存在だから。


そしてふと、思い出したことがある。


蒼倉が、まだ筆を持ったばかりの頃。

最初の一画――横線だけ、かならず左肩上がりだった。


誰にも教えられたことのない角度。

父にもない筆癖。


そのとき、蒼倉はこう言った。


「……この角度、夢の中で見たんです」


紫鳳は、言葉を呑み込んだ。


それは夢じゃない。

彼女の腕に抱かれていた幼き日、最初に握った筆の記憶。


だが、それを伝えることはできなかった。


「言えない。でも……

あの一画に、“私”が残っていたのなら――」


紫鳳は、香の火を強めた。

それが彼女の“伝え方”だった。

言葉ではなく、香と記憶で語る方法。


同じ頃――


香殿で装束の袖を整えていた蒼倉は、

ふと、懐かしい香りに目を細めた。


白檀に似て、でも少し違う。

あたたかく、どこか、切ない。


「……この香……どこかで」


思い出せない。

けれど、目の奥だけがじんわり熱を持った。


傍にいた実房が、彼を見つめる。


「その香……中宮様が、君のために焚かれたのだよ」


一瞬だけ、蒼倉が動きを止めた。

言葉は浮かばなかった。


この家には、“知ってはいけないこと”が多すぎる。


でも――

香は、確かに届いていた。


御簾の奥。

紫鳳は目を開け、微笑んでいた。


声には出せない。

名を呼ぶことも、抱きしめることもできない。


けれど、あの子は、香に気づいた。


その事実だけが、彼女のすべてを救った。


「香とは、言葉を持たぬ祈り。

名乗れぬ母が、子に渡せる、最後のもの――」


紫鳳は、香炉の蓋をそっと閉じた。


香はまだ、かすかに燻っている。


それはまるで――

名のない母と、名を持たぬ子の、夜の対話だった。


香と、涙と、筆の一画。

すべてが語っていた。


「私は、あなたの母です」と。

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