第4話 策ではなく、命を護るということ
涙なき母と、名なき子のために (左大臣家ver)
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆プロローグ 1-4 登場人物
▸ 実房:左大臣。政を動かす策士にして、家族を想う父。
▸ 忠晴:左大臣家の長男。静かなる筆の貴公子。父と妹を支える理知の兄。
▸ 紫鳳中宮:実房の次女。悠蓮東宮の妃だったが、その死とともに中宮へ。
▸ 蒼倉宮:筆と和歌に秀でる“遠縁”の宮。
▸ 悠蓮東宮:故現帝の兄で、かつての東宮。紫鳳の最愛の人。
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左大臣・実房が焚かせたのは、かつて東宮が好んだ香だった。
沈香と白檀に、わずかばかりの青柚子――
穏やかな煙が立ち上るたび、思い出すのは、あの夜のこと。
紫鳳が、声もなく膝を折り、袖を濡らしてうずくまったあの夜。
「……父上……どうか、この子だけは……」
言葉の端が震え、切れ切れになって消えていく。
“帝にはなれぬ”“名も持たぬ”――
それでもこの子は、確かにあの方の御子なのだと。
その背を、静かに抱き留めたもう一人の影があった。
兄・忠晴。
無言で、妹の肩に外套をかけ、顔を上げずに父に一礼した。
「妹の香は、私が護ります。……父上、あの子の未来を、どうか」
それ以来、忠晴は何も問わなかった。
問わず、探らず、ただ兄として、筆と香で“沈黙の盾”となった。
実房はあのとき、決意したのだ。
この家の者は誰一人、孤独にはさせぬ、と。
「香とは、“名を持たぬ言葉”だ」
実房は、煙を見つめたまま小さく呟く。
「ならば私が焚くのは、策ではない。――誓いだ」
忠晴は、机の隅に置かれた文を静かに差し出した。
進言文――蒼倉の宮を帝の御前に推挙する草案だった。
その筆致は、誇張も言い逃れもなく、ただ事実を重ねる冷静な美しさ。
「香は母の願いを包み、筆はその願いを記す。
私がその筆を記し、父上がその香を選ばれるなら――
この進言は、左大臣家の“記憶”でございます」
実房はその文を受け取り、ふと目を細めた。
「……よく育ったな、忠晴」
「父上のお背を、見てまいりましたから」
目の前の机に、改めて実房は筆をとった。
表向きは、左大臣家の“遠縁”という体の蒼倉。
だが、その筆の才、和歌の静けさ、香を選ぶ手つき――
すべてが、あの東宮・悠蓮を思わせる。
紫鳳は母であることを封じ、
忠晴は兄であることを言葉にせず、
実房は父として、政にその香を焚いた。
かつて、悠蓮東宮は消された。
その名も、姿も、香りだけを残して。
だが蒼倉には、香がある。筆がある。
そして、“祈り”がある。
進言の文に、最後の筆を入れる。
『帝の御前にて、蒼倉の筆を用いよ。
言葉でなくとも、あの子の香が――この国の行方を示すはず』
忠晴がそっと香炉の蓋を閉じる。
「策では足りぬ。香で封じ、筆で導かねば――
この国の“記憶”は、また殺されます」
実房の目の奥に、煙が揺れる。
策ではない。
香でもない。
――これは、我が家族の“誓い”である。