第9話 香の名を継ぐ者たち ― 筆が語る皇統のしるし
春、白銀香殿の庭にそよぐ風は、これまでとは違う香りを運んでいた。
それは、ただの季節の移ろいではなかった。
――新たなる皇統の胎動。
蒼倉の宮が帝・明澄のもとへ迎えられたという噂は、まだ表沙汰にはなっていない。
だが、内裏に仕える者たちの中で、さざ波のようにその報せは広がり始めていた。
「……いよいよ、ですわね」
宵羽の女御がそうつぶやいたのは、左大臣家の奥。
春の陽に照らされた襖の向こう、紫鳳中宮が静かに頷く。
「まさか……“あの方”が、本当にここまで生きていてくださったなんて」
紫鳳の目元には、まだあの時の涙の余韻が残っていた。
あの日――院と帝、皇太后の前で、すべてが明かされた。
蒼倉の宮こそが、故・悠蓮東宮の御子。
紫鳳自身が命を賭して守ってきた、唯一の光。
「お父様は……?」
紫鳳の問いに、兄・忠晴が静かに座しながら答えた。
「実房様は……すでに、覚悟を決めておられます」
声は低く、しかし芯のある声音だった。
「蒼倉の宮が次の帝になる――それは避けられぬ事実です。だからこそ、我らは最後まで“香”を護らねばならぬ」
「“香”を……」
紫鳳が繰り返す。
「……悠蓮様の面影と、あの子の香を混ぜて、帝に届けてきました。けれど、それはもう、終わりなのですね」
忠晴は頷いた。
「これからは、香ではなく、“名”があの方を導く。筆により、しるされたその名こそが、新しい時代の灯になる」
その頃――帝・明澄は、書院でひとり筆を執っていた。
『蒼倉 硯清』――
まだ表向きには、ただの遠縁の宮。
だが帝の中ではすでに、“父”としての心が動き始めていた。
「……兄上の名は、雅。あの子の筆にも、同じ品位があった」
帝の声は、誰にともなく宙に溶けてゆく。
扉の向こう、葵皇太后と院・高栄院が現れる。
「香だけでは語り尽くせぬ想いがあるのなら……名で、しるせば良いのですわ」
葵皇太后の言葉に、院も続けた。
「筆こそが、帝の心を示すのだ。あの子の筆跡――悠蓮の香とまぎれもない同じものだ。……間違えようがない」
「蒼倉の宮を、次の帝として迎えるつもりです」
帝は静かに言った。
「ただし……この事は、今はまだ限られた者たちの間でのみ。左大臣家の覚悟も、尊重せねばならない」
「遥和も、この決断を受け入れてくれるでしょうか」
皇太后がふと問いかけると、帝は微笑を浮かべた。
「遥和は、あの子を“兄様”と慕っております。血のつながりはなくとも……心は、すでに通じております」
その頃、遥和東宮は書の稽古を終え、部屋の奥で香を焚いていた。
ふと目を閉じ、ひとつ深く息を吸う。
「……兄様の香りだ」
やがて来る時――
“香の名”が、“皇統のしるし”として筆に記される日。
左大臣家、帝、皇太后、そして院。
すべての心が交わるその日まで、静かに香が世界を満たしてゆく。
そして、誰もがその香の名を、忘れられなくなる。




