第8話 渡せぬ想い、奪われぬ命 ― 揺れる帝と、左大臣の誓い
月明かりすら届かぬ、深き内裏の奥。
御簾の向こうで、帝の声が静かに響いた。
「――左大臣家に感謝を伝えたい。中宮、そして宵羽の女御。すべてを背負ってここまで守ってくれたことを、父として、兄として、帝として……礼を申す」
御前に呼ばれたのは、紫鳳中宮、宵羽の女御、そして蒼倉の宮。
御簾の奥から院と皇太后が姿を現すと、その空気は一層厳粛なものに変わった。
「……よく、生きていてくれたのですね」
院――高栄院が、ゆっくりと前へ進み、蒼倉の宮を見つめる。
彼の目には、涙がにじんでいた。
「私には分かったのです。あの香が、悠蓮のものだったと。あの子の光は……消えてなどいなかった」
葵皇太后もまた、目を伏せて嗚咽を堪えた。
「彰……そして悠蓮……ふたりを失ったと思っていたのに、こうして“香”が命を伝えてくれました」
蒼倉の宮は、まっすぐに頭を下げた。
「私には、過ぎた命。ですが……この御身に宿る名と血を、粗末にするつもりはございません」
その声音は、まるで筆のように滑らかで確かなものだった。
帝は黙ってその姿を見つめ、やがて問う。
「……名は?」
「蒼倉 硯清と申します」
宵羽の女御が、涙を拭いながら言った。
「蒼倉の宮と遥和……よかった。ふたりとも、よく、ここまで……」
すると、帝が振り返り、静かに命じた。
「――遥和を呼べ」
ほどなくして、遥和東宮が駆け込んでくる。
その目に蒼倉の宮の姿が映った瞬間、時が止まったようだった。
「兄様……!」
遥和東宮は迷わず駆け寄る。
蒼倉の宮は、わずかに面食らいながらも、丁寧に頭を下げた。
「お久しゅうございます、東宮様」
「もう、そう堅苦しく呼ばないでください。私にとっては……ずっと兄様なのです」
その声に、室内の誰もが微笑んだ。
血筋だけではない――絆が、確かにここにあった。
高栄院が、静かに言う。
「……明澄。おまえはどうする。あの子を、内裏に迎えるのか?」
帝は一瞬だけ、目を伏せた。
「……兄上の子ならば、なおのこと。これ以上、外にいてもらうわけにはいかない。だが、左大臣家の覚悟も受け取っている。……私は、蒼倉の宮を“内裏の家族”として迎えたい」
左大臣・実房が、一歩前へ出る。
「それには、条件がございます」
御簾の奥から視線が集中する。
「左大臣家の警護、そして白銀香殿――あれはすべて、あの子を隠すために築いたもの。内裏に入るのであれば、同等以上の警護をお約束願いたい。悠蓮東宮を亡くした今……我らは、これ以上、守るべき者を失うわけにはまいりません。」
院が深く頷いた。
「誓おう。私が持てるすべての力をもって、その命を守る」
皇太后も続ける。
「皇統とは、ただ血を継ぐことにあらず。心と香の繋がりもまた……尊きもの」
帝が、最後に静かに言った。
「蒼倉の宮を、次代の帝とする。その次を、遥和に――」
遥和東宮は、はっと顔を上げる。
「兄様の次に、私が……?」
帝は笑みを浮かべた。
「おまえには兄様と慕える誰かがいた。ならば、学べ。そして守れ。その心こそ、帝に必要なものだ」
その言葉に、東宮は深く頭を下げた。
その夜――
白銀香殿には、かつての香と新しい香が重ねられた。
誰かを護るために沈黙してきた者たちの誓いと、
再び、香によって繋がれた血と心。
すべてが、ようやくひとつの灯となって、
春の夜をあたたかく照らしていた。




