第6話 帝と蒼き影 ― 香が誘う、あの日の面影
*-----------------------------*
(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
*-----------------------------*
――香に宿る記憶。未来を決める“名もなき皇子”の影が、静かに揺れ始める。
春深く、内裏に香るのは、白銀香殿の焚香と、記憶に刻まれた“あの香”だった。
茜皇后のもとには、可憐な皇女・梓が膝に抱かれ、帝はそっと手を添える。
「あなたがいてくれたから、私は……あの子の名を呼べたのよ、梓」
香の名残が室内に漂う中、帝は小さく微笑んだ。
その腕の中には、新たな命が宿っている――
「陛下、右大臣殿がお見えです」
報せに帝がうなずくと、右大臣・藤嶺が控えめに頭を垂れた。
「ご懐妊、誠におめでとうございます。……恐れながら、ひとつだけ」
「申してみよ」
「もし、今回の御子が“男子”であった場合……東宮殿下より継承権が優先されるお考えはございますか?」
帝の眼差しが静かに揺れる。
「……ない」
即答だった。
「私は、遥和を次代の帝と決めている。誰が男子であろうと、それは変わらぬ」
右大臣がわずかに表情を変えた瞬間――
奥から、院・高栄の声が響いた。
「それがおまえの道か、明澄」
「……はい。兄上のことも、遥和のことも、忘れたことはありません。茜と、あの子と……家族を守るための決断です」
院は目を細めると、静かにうなずいた。
「それならば、私も支えよう。――ただ、ひとつ気がかりがある」
帝が顔を上げた。
「悠蓮の子は……確か左大臣家にいたはずだ。だが、その後の消息が掴めぬ」
帝の目がわずかに揺れた。
「――まさか」
◇
同刻、白銀香殿の奥庭――
蒼倉 硯清は、若き姫君たちと香の稽古をしていた。
ふと吹いた春風が、懐かしい香を運ぶ。
その香に、離れた場所にいた帝は目を細める。
「……この香は、兄上のものに似ている」
それは“悠蓮東宮”が好んだ香。
だが、そんな香を今、誰が?
遠目に見えた蒼倉の姿に、胸の奥がざわついた。
「……まさか」
香だけが、記憶を揺らす。
◇
夜。明澄帝は帳の奥に香炉を置き、静かに独り言を漏らしていた。
「……兄様の香がした」
短い時間だったが、筆と和歌を教え、励ましてくれた。
その面影を、蒼倉 硯清に感じていた。
今、蒼倉と名乗っているが、あの記憶の中の“兄様”と、どこかが重なる。
◇
夜更け、左大臣邸。
実房、忠晴、紫鳳中宮、宵羽の女御が密かに集まり、香を焚いた一室で言葉を交わしていた。
「……陛下が気づかれる日も近いでしょう」
忠晴が言った。
「蒼倉の香は、あの方のものと同じ。悠蓮東宮が遺した“光”が、あの子には確かに宿っています」
「けれど、まだ言えません」
紫鳳が静かに首を振る。
「帝となる者がひとたび現れれば、あの子は“標的”になる。私は……今度こそ、誰も殺させない」
「……守る。それが我ら左大臣家の務めです」
実房が低く、強く言った。
「真実は、香に宿せ。香が帝に届くその時まで、我らは沈黙を貫く」
――香が揺れた。
その夜、誰もがそれぞれの“影”を胸に抱いて眠りについた。
そして帝もまた、あの香の名を思い出そうとしながら、
夜明けの帳に包まれていた――
「香は、すでに帝の記憶に入り込んだ。
それが“忘れられぬもの”である限り、真実は、いつか――届く」




