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筆に咲く、蒼の記憶 ―転生した姫と“かつての師”、平安後宮絵巻―  作者: 米粉
第2章 香に宿る血 ― 皇統の影、恋の光
28/35

第3話 遥和東宮、悩む春宵 ― 姫の名が胸に残って

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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。

 宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。

 あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)

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春宵。

風はやわらかく、御簾の向こうで揺れる桜の枝が、月明かりを浴びて淡くきらめく。


遥和東宮はひとり、香を焚く小さな火鉢の前に座していた。

ひととき前、庭先を歩いていたとき、ふいに風が運んできた香りが――彼の記憶を強く引き戻したのだ。


「……燈香、と名乗っていたな」


呟いた名は、まだどこの姫君かもわからぬ少女。

けれど、その声と姿と、なにより――香りだけが、なぜか胸に強く残っている。


「あの声が、忘れられない……あの香の重なりに、もう一度触れたいと思っている」


誰に問うでもなく、けれど誰かに聞いてもらいたいように、遥和は小さく息をついた。


そこへ、静かに御簾が上がる。


「……春の夜に、香を焚いておられましたか」


姿を見せたのは、母・宵羽の女御。

左大臣家の長女であり、明澄帝の側室でありながら、東宮・遥和の生母でもある女性だった。


「はい……少し、気を落ち着けたくて」

「ふふ。香に手を伸ばすのは、あなたが幼い頃から変わりませんわね」


宵羽の女御は穏やかに微笑んで、東宮の前に座した。


「……母上。実は、近頃、ある姫君のことが、胸に残って離れないのです」


宵羽はその言葉に、少しだけ目を細めた。


「姫君の名は……?」


「燈香。そう名乗られました。……けれど、どこのお家の方か、まだわかりません。香のことを話す姿が、まっすぐで……あまりにも、心に残って」


それを聞いた宵羽は、そっと頬に手を添える。


「その名……どこかで聞いたような気がしますわ」

「……本当ですか?」


遥和は、顔を上げる。


「まだ、確かではありません。けれど……心に残る方に出会えたのですね」

「……はい。婚約者候補として話が進んでいる姫が別にいるのに、どうしても気になってしまうのです」


それは、誰にも言えない本音だった。


婚約者候補――華怜姫。

その名は、都でも知られた才色兼備の姫。何も不満はない。けれど心が向くのは、庭で出会った、たった一度の少女。


宵羽は静かに頷いた。


「遥和。あなたは、父君とは違い、感情で動く子でした。けれど……それを恥じることはありません」

「……けれど、私はいずれ帝の位を継ぐ身。軽々しく恋に心を寄せてはならぬと、わかっているのです」


「ならばこそ、今はその気持ちを、大切に温めていればよいのです」

「想いを知らずに進む婚姻ほど、心を閉ざすものはありません。……私がそうであったように」


その一言に、遥和は言葉を失う。


母・宵羽の女御は、政のために後宮へ入り、帝の子を産んだ。けれど、彼女が愛していた人の名は、きっと別の誰かだったのだろう。


「……ありがとうございます、母上」

「もしまた、あの姫と出会えるなら、その時は、胸を張ってお話しなさいな」

「はい」


香が静かに揺れていた。


その香りは――かつて、庭に咲いた、春の記憶。

遥和東宮の胸に、ひとつの想いの芽を、確かに根付かせていた。

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