第3話 遥和東宮、悩む春宵 ― 姫の名が胸に残って
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
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春宵。
風はやわらかく、御簾の向こうで揺れる桜の枝が、月明かりを浴びて淡くきらめく。
遥和東宮はひとり、香を焚く小さな火鉢の前に座していた。
ひととき前、庭先を歩いていたとき、ふいに風が運んできた香りが――彼の記憶を強く引き戻したのだ。
「……燈香、と名乗っていたな」
呟いた名は、まだどこの姫君かもわからぬ少女。
けれど、その声と姿と、なにより――香りだけが、なぜか胸に強く残っている。
「あの声が、忘れられない……あの香の重なりに、もう一度触れたいと思っている」
誰に問うでもなく、けれど誰かに聞いてもらいたいように、遥和は小さく息をついた。
そこへ、静かに御簾が上がる。
「……春の夜に、香を焚いておられましたか」
姿を見せたのは、母・宵羽の女御。
左大臣家の長女であり、明澄帝の側室でありながら、東宮・遥和の生母でもある女性だった。
「はい……少し、気を落ち着けたくて」
「ふふ。香に手を伸ばすのは、あなたが幼い頃から変わりませんわね」
宵羽の女御は穏やかに微笑んで、東宮の前に座した。
「……母上。実は、近頃、ある姫君のことが、胸に残って離れないのです」
宵羽はその言葉に、少しだけ目を細めた。
「姫君の名は……?」
「燈香。そう名乗られました。……けれど、どこのお家の方か、まだわかりません。香のことを話す姿が、まっすぐで……あまりにも、心に残って」
それを聞いた宵羽は、そっと頬に手を添える。
「その名……どこかで聞いたような気がしますわ」
「……本当ですか?」
遥和は、顔を上げる。
「まだ、確かではありません。けれど……心に残る方に出会えたのですね」
「……はい。婚約者候補として話が進んでいる姫が別にいるのに、どうしても気になってしまうのです」
それは、誰にも言えない本音だった。
婚約者候補――華怜姫。
その名は、都でも知られた才色兼備の姫。何も不満はない。けれど心が向くのは、庭で出会った、たった一度の少女。
宵羽は静かに頷いた。
「遥和。あなたは、父君とは違い、感情で動く子でした。けれど……それを恥じることはありません」
「……けれど、私はいずれ帝の位を継ぐ身。軽々しく恋に心を寄せてはならぬと、わかっているのです」
「ならばこそ、今はその気持ちを、大切に温めていればよいのです」
「想いを知らずに進む婚姻ほど、心を閉ざすものはありません。……私がそうであったように」
その一言に、遥和は言葉を失う。
母・宵羽の女御は、政のために後宮へ入り、帝の子を産んだ。けれど、彼女が愛していた人の名は、きっと別の誰かだったのだろう。
「……ありがとうございます、母上」
「もしまた、あの姫と出会えるなら、その時は、胸を張ってお話しなさいな」
「はい」
香が静かに揺れていた。
その香りは――かつて、庭に咲いた、春の記憶。
遥和東宮の胸に、ひとつの想いの芽を、確かに根付かせていた。




