第12話 沈黙の中宮、香で守りし命
*-----------------------------*
(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
*-----------------------------*
春の風が香殿を渡るころ、白銀香殿にふたたび香が焚かれた。
それは、帝・明澄がふと記憶にとらわれた“あの香”だった。
沈香と梅。そして、かすかに――懐かしい影のような香。
(……兄上、悠蓮様の香……)
香は、帝の記憶を呼び起こす。
かつて池のほとりで感じた“あの香”と、いま、どこか重なっている。
帝は思わず院――前帝にして父である高栄院に、問いを向けた。
「父上。悠蓮兄上の御子――左大臣家に預けられたはず。
今は、どこに?」
高栄院は、しばし沈黙し、ゆっくりと答えた。
「……“行方不明”という形にしてある。
だが、香を見れば分かる。あの子は――まだ、生きておる」
***
白銀香殿に、左大臣・実房とその長男・忠晴。
そして紫鳳中宮、宵羽の女御が、帝の命により集められた。
「実房。私は、問いたい」
帝・明澄の声音は静かだが、強く響いていた。
「白銀香殿にて、私は“悠蓮兄上の香”を感じた。
紫鳳中宮が焚く香が、兄上のものと似ていた。
――誰が、彼女にその香を焚かせた?」
場の空気がぴたりと止まる。
忠晴が一歩、前へ出た。
「……陛下。申し訳ございませんが、
お答えすることは――我が家の“忠義”に背く所作となります」
「ならば問う。
その忠義は、“誰”のためにあるのか」
忠晴の眼差しが、帝と重なった。
そのまなざしの底には、静かな痛みが宿っていた。
「悠蓮様の御子がもし生きていて……
内裏に戻れば――命を奪われるやもしれませぬ」
帝の表情がわずかに動いた。
「……そこまでの脅威を、感じているのか」
「香を焚く前に、命を焼かれた例が――ございました」
場が凍る。
そのとき、御簾の奥から、紫鳳中宮の声が届いた。
「……私は、あなたに、愛されなくてよいのです」
「ただ――兄上、悠蓮様の名を、忘れないでください」
その声音は静かで、でも震えていた。
堂上の女として、母として、そして――愛を貫いた者の声だった。
「政のために中宮となりました。
最愛の人の弟のもとへ嫁がされるなど、
悔いがないと言えば嘘になります」
「ですが――あの子だけは、私の命です。
兄上と私が、この世に残せた唯一の光……」
「香で、その記憶を、あなたに託したかったのです」
御簾越しの声。
だが、その想いは、香とともに、確かに帝へと届いていた。
***
庭先。香の稽古をしているひとりの青年がいた。
その名は、蒼倉の宮。
帝は、ふとその姿に目を留める。
髪の癖。目の形。香の調合の仕草。
すべてが――亡き兄、悠蓮に似ていた。
「そなた、名は」
「……蒼倉の宮、と申します」
青年は、静かに礼をとった。
(この香……この姿……)
(……兄上、貴方の光は――まだ、この国に、残っていた)
***
夜。左大臣邸にて。
実房、忠晴、紫鳳中宮、宵羽の女御が再び集まっていた。
「……そろそろ限界です。陛下は、もう気づき始めています」
忠晴の言葉に、紫鳳中宮が静かに頷いた。
「けれど、今、明かしてしまえば……
また、あの子が“政”の犠牲になるかもしれません」
宵羽も唇を噛む。
「……今度こそ、誰も失わせてはならない。
私は、妹として、母として――そう願うばかりです」
忠晴が香図を机に広げた。
「“真実”は、香に託すべきです。
帝の心に、悠蓮様の香が残っている限り……
“その時”が来れば、言葉より強く、伝わるはずです」
実房が静かに言う。
「……香は、嘘をつかぬ」
「香は、真を包む。
だからこそ、“香”を信じて、ここまで来たのだ」
***
夜の香が、白銀香殿を包む。
帝はただひとり、香炉の前に座していた。
「兄上……あなたの光は――たしかに、今も生きている」
目を閉じる。
そして、胸の中で、小さく呼んだ。
「彰雅、あの子のために、私は進みます」
香の奥に、亡き兄の記憶。
そして、まだ名も語られていない、“未来”が――
たしかに、宿っていた。




