第1話 白銀香殿の贈り物
― 政と祈りの導火線(内大臣家ver) ―
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
序章 壱 登場人物
▸ 藤原 兼雅
若き内大臣。真面目で実直だが、政略に不慣れな青年。
筆に対する誠実さと、心のままに人を想う優しさを持つ。
▸ 藤原 俊遠
前内大臣。政の裏を読む老貴族。甘味を好む飄々とした人物ながら、
その目は常に宮中の静謀を見据えている。
彼のおやつはちょっとした飯テロです。
▸ 白雪
左大臣家の三女。静かに香と共に生きる姫。
才ある姉たちと異なり、自らの香で誰かの心を守ることを願う、
祈りの人。
▸ 藤原 実房
左大臣。娘たちを政に使いながらも、その幸福を計算に組み込む
“沈黙の策士”。香を「政治」として操る。
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春霞が、都をぼんやりと包み込んでいた。
左大臣家の邸では、一つの宴が開かれている。
名目は――
新内大臣・藤原兼雅の昇進祝い。
けれど、その規模が「ささやか」なんて言えるレベルではなかった。
会場には、贅を尽くした香が漂い、香道の名手が調合した薫物が、空気ごと染め上げている。
その香りは、ただの歓迎ではない。
香は、挨拶でもあり、牽制でもある。
“おめでとう”というより、“この場にいる意味を、心得よ”という無言の圧力。
紫檀の高座。
そこに並ぶのは、新内大臣・兼雅と、その父・俊遠。
――祝いの場に立つ者たちの顔に、ほんのりとした緊張が張り付いていた。
「内大臣ご昇進、誠にめでたいことにございますな」
声を響かせたのは、左大臣・実房。
口ぶりは穏やか。でも、その奥にある“真意”は、誰の耳にも刺さるほど鋭い。
「これを祝いまして、ささやかながら、ひとつ贈り物をご用意いたしました」
……その一言で、空気が変わった。
俊遠の笑みは崩れない。
でも、膝の上で握る扇が、音もなくギュッと鳴った。
兼雅は盃に口をつける。もう三度目――けれど、酒はまだ一滴も喉を通っていない。
「二条の東に、ひとつ屋敷を設けました。
白き壁、白き畳、白梅の植え込み。
まさに、内大臣家にふさわしい――清らかな館です」
ざわっ、と貴族たちの間に波紋が走る。
「……屋敷を?」
俊遠の声に、かすかな揺らぎ。
実房は動じない。むしろ、ゆっくりと微笑んだ。
「左大臣家からの、ささやかな誠意でございます。
名は――白銀香殿。
そしてそこには、我が娘・白雪を住まわせるつもりでおります」
ぴたり。
空気が止まったような沈黙。
俊遠の手が、膝上で小さく震える。
隣の兼雅も、盃を持つ手から、少しずつ力が抜けていく。
「ほほう……これはまた、光栄なことで」
俊遠の声は、乾いていた。
誰も咎めない。みんな知っていた。
これは“祝い”じゃない。
これは、“差し出し”だった。
娘と香と屋敷。
その三つを贈るということは――
『お前を、味方にする』
という静かな宣戦布告。
周囲の声が、ひそひそと飛び交う。
「白銀香殿……まるで香の館ですわね」
「白雪の君、あの美しさで……政の駒にされるなんて」
「屋敷の設えも、どう見ても“ただの祝い”じゃない」
俊遠と兼雅は、視線を交わすことなく、同じ笑みだけを貼り付けていた。
けれど、その内心は――
『これは、罠だ』
『でも断れない』
左大臣は香で誘い、筆で封じてくる。
誰もが、口に出さずとも察していた。
『……詰んだな』
『完全に』
『受けるしかない』
『雪の香りがする屋敷、か……』
そしてその夜。
宴の締めに、帝が一首の歌を詠んだ。
白銀に 香を閉じ込め 筆の音
咲かぬ花にも 春はくるらん
それは、白銀香殿と呼ばれる邸に与えられた、最初の――
そして、静かなる“命令”だった。