第6話 探し物は、香だけが知っている ― 愛の始まり
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には創作上の表現が含まれています。
“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
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白銀香殿の奥。
香室にひとり、燈香は座していた。
香図を広げ、香材を選びながら、まだ決めきれずにいた。
(違う……これじゃない)
白梅と薄荷、鈴蘭の淡香。
池のほとりで出会った、あの“誰か”――
名も知らぬ君と話したときの空気を、再現しようとしていた。
けれど、何かが足りなかった。
どれだけ香を組み替えても、“あの時の感覚”には届かない。
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「……探しておられるのですか?」
ふいに背後から声がした。
蒼倉の宮だった。
彼は香図に目をやると、微かに微笑んだ。
「香は、探そうとすると、逃げるものです。
けれど――“探してもらえること”は、きっと喜びます」
燈香は息を呑む。
「……わたし、ただ……もう一度、あの香に、会いたくて」
蒼倉はゆっくりと香図の一隅を指さす。
「足りなかったのは、“あなた自身の香”です。
再現するのではなく――あの日の“あなた”も、焚いてください」
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そのころ、宮中・東宮邸。
遥和は、例の香に似た品を、いくつも試していた。
白銀香殿に近い調合、女房から伝え聞いた名もない香……
「……違う。どれも、違うんだ」
声はかすかに苛立ちを帯びていた。
だが、彼は気づいていた。
自分が探しているのは香だけではない、と。
(香を通して、あの“声”を思い出したいんだ)
(もう一度、あの姫に――)
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その夜、香殿の中庭で、燈香はひとり香を焚いた。
白梅と薄荷、鈴蘭に、
自分の“今の気持ち”を加えた香をひと匙。
甘葛の細い甘さ。
言葉にならない想いが、そっと煙に紛れた。
「……届くかな」
名も知らぬ君に――
まだ名も知らぬ“好き”の感情に。
香が、風に乗る。
それはもう、記憶の再現ではなかった。
(これは――想い。あの人に、もう一度会いたいという、想い)
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そして翌日。
遥和は、渡殿の廊下でふと立ち止まった。
ふわりと、かすかに鼻先をくすぐる香。
(……これだ)
白梅、薄荷、鈴蘭。
そして――甘葛の、あたたかい甘さ。
間違いない。これは、あの姫の香だ。
(どこにいる……?)
まだ名も知らぬ想い人を、
“香”だけを頼りに、彼はまた探し始めた。
それが、“恋”という名であることに、
まだ彼も、気づいていなかった。