第5話 香の残る袖 ― 忘れられぬ声と、探し始めた想い
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
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白銀香殿の衣桁に、燈香はそっと袖をかけた。
一度、風にあてようとしたのだ。
それでも……ためらってしまった。
袖の奥に、まだ“あの香”が残っていたから。
(あの声、あの空気――どうしてこんなに、残っているの……?)
名も知らぬ“誰か”と、池辺で交わした短い言葉。
あれきり、会っていない。
なのに、どうして。
香は、風と共に消えていくはずなのに――
袖の奥では、まだあたたかく呼吸をしていた。
そのころ――宮中・東宮邸。
遥和東宮は香司を呼び、ひとつの依頼をしていた。
「香を調べてほしい。あの日、池の風にあったものだ」
香司は少し首をかしげる。
「匂いの記憶、でございますか」
「記憶にだけ残ってる。でも、はっきり覚えてる香だ。白梅と……薄荷、だと思う。あとは、鈴蘭が少し」
香司が手を止める。
「その調香は……めずらしゅうございますな。
白銀香殿あたりでよく焚かれる型に、少し似ておりますが……」
「……白銀香殿?」
遥和はその名に、ほんの少しだけ目を細めた。
(あの時の姫……まさか)
香殿の廊下。
燈香が香室に入ろうとしたとき、母・白雪とすれ違った。
「……燈香。その袖、まだ香が残っているのね」
「えっ……あ、うん」
「想いの残る香は、なかなか消えないの。
“記憶より、香のほうが強い”と言われるくらいだから」
燈香は黙って袖を見下ろした。
その言葉に、ふっと心が疼いた。
(忘れたくない――けど、これが何かもわからない)
(どうして、声だけで…胸が熱くなるの?)
白雪は、それ以上何も言わず、
娘の肩にそっと手を添えただけだった。
その夜、左大臣・実房は、香図を広げていた。
「白銀香殿の香が動いた……“娘たち”の香の層に、乱れが出てきた」
紫鳳中宮の香も、微かに変化していた。
「香はまだ“愛”と呼ぶには遠い。けれど、確実に“誰か”を選び始めている」
彼は硯の横に文を置きながら、香の名前をひとつだけ記した。
『忘香――忘れられぬ香』
そして――その夜。
遥和は、寝台の帳の中で、ふと目を開けた。
「あの姫は……誰なんだろう」
「でも、香だけは、俺の中にちゃんと残ってる」
目を閉じると、ふわりと、白梅と薄荷が鼻先を撫でる。それはまるで、記憶よりも強く、
名前よりも確かな“想いの線”だった。