第4話 筆の教えと、探し始めた想い
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆登場人物
▸ 燈香:内大臣家の姫。筆に触れると、香に似た記憶が揺れ出す。
▸ 華怜:内大臣家の姫。姉。蒼倉にほのかな想いを寄せる。
▸ 蒼倉の宮:帝の詠者にして、筆と香を司る“師”。
▸ 遥和東宮:華怜に婚姻の期待をかけられながら、“池辺の姫”を探す。
▸ 紫鳳中宮:沈黙の中で香を読み、国の香気を見定める。
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白銀香殿の一室に、ふたりの姫が並んでいた。
黒漆の文机の前、和紙の上に静かに筆が置かれている。
「……今日は、筆の稽古を」
そう言ったのは、蒼倉の宮。
静かな声は空気のように響き、香のように染み込んでいった。
「帝よりの命にございます。“ふたりの姫君に、筆を教えよ”との」
華怜は凛と背筋を伸ばし、美しい手つきで筆を取った。
舞で鍛えた動きに、迷いはない。
けれどその目は、時折蒼倉をちらりと見ては逸らす。
「今日の装束、どう思われますか……?」
そう問いかけたいような、乙女の心が袖にこぼれていた。
一方、燈香は黙って筆を見つめていた。
墨の香りが、ふいに記憶をくすぐる。
「……筆を取ると、手が……勝手に動きそうになります」
「それは、“書き慣れた手”の記憶ですね」
蒼倉が静かに言った。
「筆は、香と同じです。心に宿ったものが、そのまま線にあらわれる」
燈香は、ゆっくりと筆を取り上げた。
一筆目は、ためらいがあった。
けれど、次の瞬間――筆先は、流れるように進んだ。
華怜が目を見張った。
(……あれ? とうか、あんなに……)
「あなたの筆は、形より“呼吸”が整っている」
蒼倉は、燈香の紙をじっと見つめて言った。
「誰かに習ったわけでは……」
「いえ。筆が覚えているのでしょう。あなたの“祈り”を」
その言葉に、燈香の胸の奥で、なにかが小さく鳴った。
けれどそれが何なのかは、まだわからなかった。
◇
そのころ、宮中では――
遥和東宮が、ふたりの姫の動向を侍従に告げていた。
「……蒼倉に、華怜姫の素養を見ておいてもらおう」
「内大臣の姫なら、いずれ……そういうことになるかもしれませんしな」
「……ああ。でも」
遥和はふと視線を外す。
「俺は……池のほとりにいた、あの姫のことが気になっている」
「……あの姫、ですか?」
「香が……優しくて、静かだった。名前も、家も知らない。
でも、香が残ってる。……胸のどこかに」
侍従が答えに詰まる。
「それでは、名簿で調べてみましょうか?」
「いや――今は、まだいい」
「そのうち、また“香り”が導いてくれる気がする」
◇
その夜、紫鳳中宮の御簾の奥で、香炉の煙が揺れていた。
「筆が、動きましたか」
侍女が静かにうなずく。
「内大臣の一の姫は、華やかで力強く」
(一の姫 長女の事)
「内大臣の二の姫は……香のように、静かに揺れておられました」
(二の姫 次女の事)
「……香が、選び始めましたね」
中宮は、そっと香の配合を変えた。
青柚子と沈香に、微かに薄紅の花香を忍ばせる。
「記憶の香ではなく、これからの香へ――」
筆は、教えられるものではない。
香と同じ。
“自らの中から、ただ流れ出すもの”
それを知っている者だけが、
“未来の物語”を、筆で書くことができるのだから。
■余韻の一節
遥和は、寝殿の帳の奥でふと息を吐いた。
「香の名も、知らずに惹かれるなんて……どうかしてるな、俺」
燈香は、灯りを落とした香殿で筆を置き、呟いた。
「……また会える気がする。あの声の香が、胸に残ってるから」