第3話 池辺の邂逅 ― 香に酔いし少女と名も知らぬ君
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。宮中の制度や人物設定には創作上の表現が含まれています。“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆登場人物(この話に出てくる人)
燈香:内大臣家の姫。香に酔って人混みを離れ、池辺で一人休む。
遥和東宮:現・東宮。宴の華やかさに疲れ、偶然その場へ。
華怜:姉。宴の舞台を飾り、皆の注目を浴びる才女。
※蒼倉の宮、実房などは今回は名前のみ登場。
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風が、ほんの少し強くなった。
白銀香殿の庭園。
その奥にある池のほとりで、燈香は身を小さく丸めていた。
白檀と沈香が混ざる会場の香に、完全に酔ってしまったのだ。
「……人が、たくさんすぎて……香も……きつい……」
昼間に咲いた紅梅の香さえ、いまは胸に重くのしかかる。
膝を抱えて目を閉じると、ただ静かな風が肌を撫でていった。
そのとき――
「……おや、先客か」
柔らかく低い声が、木陰の向こうから聞こえた。
振り返ると、年の近い少年が、梅の幹にもたれて立っていた。
衣は控えめながら、着こなしには品があり、
何よりその佇まいが、まるで風そのもののようだった。
「君も逃げてきたの?」
「……え?」
「宴の香と人混みに。僕も、あれはちょっと……胃が重たくなる」
少年はそう言って、燈香の隣に腰を下ろした。
誰かと一緒に逃げてきたわけでもなく、
ただこの場所を選んだというように、自然だった。
「……あなたも、酔ってしまったのですね」
「香にね。あれはもう、舞より強烈だったよ」
ふっと、ふたりの間に風が通る。
誰もいない、誰でもない場所。
「……さっきの姫君の舞、見てた?」
「はい。見ておりました。」
「堂々としてた。綺麗だったね」
「……ええ。」
燈香は少しだけ目を伏せた。
その横顔を、少年はちらと見て、笑った。
「でも、君のほうが“落ち着く香り”がする」
「……へ?」
「緊張しないっていうか、香りが静かで、優しい。
……安心する。」
その一言に、燈香は思わず頬を紅くした。
けれど――なぜか、香の中に“懐かしさ”が混じっている気がした。
(この声……この気配……)
「あなたは、どちらのお方ですか?」
燈香は横の少年に顔を向けた。
「僕? ……公達の一人、ってことで」
どこかはぐらかすように笑った。
ふたりはしばし黙って、池の水面を見ていた。
風に揺れる水の音と、遠くの楽の音だけが聞こえていた。
「……名前を、お伺いしても?」
「……また、今度会えたら。そのときに」
その瞬間、遠くから女房の声が響いた。
「若様! お戻りくださいませ!」
「……っ」
少年の表情が変わった。
少し焦ったように立ち上がる。
「それじゃ、また。あの――静かな香の姫君」
彼は笑って、手を軽く振ると、そのまま梅の木の陰へと姿を消した。
燈香は、その背を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「誰だったんだろう……?」
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その夜。
遥和は装束を脱がせられながら、侍従に問うていた。
「……さっきの池の姫。あれは誰だ?」
「申し訳ございません。あの場には、ご息女が多すぎて……」
遥和は目を閉じた。
香だけが、ふと鼻腔に残っていた。ふたりは、名を知らず、香だけで記憶された。
その出会いは、“政略”の線の外にある――だからこそ、本物だった。
“静かで、優しい香り”。
名前も知らぬまま、胸に残る一陣の風のようだった。