第2話 白銀香殿の筆 ― はじまりの一画
宴の余韻が、香のように空間に満ちていた。
舞台の中央――
華怜の最後の扇が空を舞い、緞帳のように舞台を閉じると、文人たちの静かな拍手が幾重にも波を重ねた。
「……見事なものでしたな」
「まさに内大臣家と左大臣家の薫香の才」
「華怜姫、本当に非の打ちどころのない姫ですな…。」
そんな声の中で、次女の燈香はひとり、立ち上がった。
蒼倉の宮が目を細め、
実房が盃を伏せる音を立てる。
静かに、すべての視線が集まった。
「……わたくし、舞も和歌も得意ではございません」
「けれど、筆なら……すこしだけ」
ざわ……と会場が揺れる。
それは驚きではない。
“予想外”という香が、風に乗って広がった。
「筆、で?」
「まだお年も浅いのに……」
女房がすぐに反応し、香殿の奥から硯と紙を運ばせた。
蒼倉が軽く手を挙げる。
「筆と心は年齢を問わぬ。見届けましょう」
燈香は、誰の助けも借りず、すっと筆を取り上げた。その姿勢は、どこか覚えているような、けれど今ここでしか存在しない確かな“初めて”。
紙に、筆先が触れた。
一画、また一画。
その筆致は、行書――
けっして型通りではない。
けれど、澱まず、止まらず、まるで香が文字になるような運びだった。
そして、書きあげられたのは一文字。
『結』
華怜が、口元に手を添える。
蒼倉が、深く瞬きをした。
誰もが知っている言葉。
けれど、その一文字の中に込められた香だけは、
燈香ひとりの“祈りの温度”であった。
少女が書き終えると、室内の香気が微かに変わった。白梅と薄荷、そして紙の墨がわずかに融け合い、それがまるで、新しい香殿の“名の香り”であるかのように広がった。
白銀香殿の奥、古より伝わる“筆香の記録”には、ひとつの伝説がある。王羲之が蘭亭序を記したその日、紙に香を焚き染め、筆をとるたびに香気が広がったと。
墨と香が交わるその瞬間、文字はただの記号ではなく、魂の形となる。
燈香の「結」は、まさにそれだった。
誰かの模倣ではなく、誰かの教えでもない。
ただ、今この場に咲いた香の結び――蘭亭の宴に連なる、新たな筆の誕生だった。
蒼倉の宮は、静かに言葉を選んだ。
「――結ぶ、か」
「その筆は、“別の記憶”ではなく、今の貴女の心から生まれたものです」
実房が、口元に笑みを忍ばせる。
「ならば、白銀香殿にまたひとつ、“香の筆”が灯ったということだな」
✨余韻の一節
舞台袖、東宮が目を細めていた。
「……あの姫は、誰だ?」
誰もが呆然とし答えなかった。
けれど、香だけが、そこに残っていた。
それはまだ名を持たぬ少女の筆――
けれど、それこそが、
“白銀香殿の物語の始まり”だった。