第1話 香が咲くとき、政が動く
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。宮中の制度や人物設定には創作上の表現が含まれています。“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
燈香とうか:内大臣家の父と左大臣家の母を持つ、12歳の主人公。新白銀香殿を祖父にプレゼントされ、そこに暮らす少女。中の人は実は転生者でのんびり主婦。
華怜かれん:14歳の主人公の姉。もう一人のヒロイン。東宮に婚約者候補として興味を持たれて、蒼倉の宮を派遣されて内心喜んでいる。
蒼倉そうくらの宮:帝のお気に入りで東宮の信頼も厚い、筆と香の才を持つ天才青年。かつての“師”としての記憶が、香で蘇る。
遥和はるか東宮:宵羽の息子。蒼倉を「兄様」と呼び慕う。
白雪しらゆき:燈香の母。香で家を守る静かな姫。
兼雅かねまさ:燈香の父。内大臣。香殿を静かに支える“優しき筆の男”。
※紫鳳中宮しほう:名前のみ登場。蒼倉を香殿に差し向けた“御簾の奥の影”。
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新白銀香殿は、まさしく都で最も香り高く、広やかにして優雅なる香の御殿であった。
左大臣・藤原実房が、自らの香道の粋を世に知らしめるべく築かせたその建物は、貴族たちのあいだで “一度は訪れてみたい” と語られるほどの格式を誇る。
数多の香司を集め、天井の細工は香に応じて文様を揺らし、
壁の漆には銀粉が練り込まれていた。
一歩、香殿に足を踏み入れれば、香が変わる。
香が変われば、空気が変わる。
空気が変われば、政の顔さえも変わる。
まさに、香で築かれた宮。
左大臣・実房、その美意識と誇りの化身にほかならない。
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その広間の奥、姉妹が並ぶ。
燈香は、十二歳。
今年の誕生日は、もう三度目の“自分の誕生日”だった。
最初は主婦として、現代で暮らしていた。
不慮の事故で命を落とし、この体に転生して三ヶ月。
──この世界は、平安を模した異世界。
だが、香と筆が、すべての言葉を代弁する世界だった。
(……まさか、こんなところで、“第二の人生”を始めるなんて)
脇に立つ姉・華怜は十四歳。
才知と美貌に恵まれ、香殿に咲く花のように、周囲の視線を受け止めていた。
けれど――今日は違う。
今日、この場には、姫たちを見つめる“本物の目”があった。
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「東宮様、そして――蒼倉の宮、ただいま香殿にお着きです」
女房の声が響く。
一斉に、香が変わった。
白梅と青柚子の調香。
そこにわずかに沈香が差し込まれ、香殿の天井がゆっくりと文様を変える。
「ようやく……お目にかかれるのですね」
華怜の声が、わずかに震える。
燈香もまた、胸の奥にざわりと何かが触れた。
(……この香、知ってる? いや、初めてのはずなのに)
ゆっくりと御簾が上がり、蒼倉の宮が歩を進めた。
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蒼倉の宮――
筆と香に生きる、幻の才人。
誰もが目を奪われるほどの美貌と、けれど誰にも心を明かさぬ静寂。
その横に立つのは、遥和東宮。
帝の跡を継ぐ、優しき皇子。
蒼倉を“兄”と呼び、姫たちに深く頭を下げた。
「今日は蒼倉兄様にお願いして、筆の初会を」
その一言で、香殿に微かな緊張が走る。
姫たちが、ついに“帝位をめぐる盤”に立ったのだ。
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遠く高座の奥、左大臣・実房が甘酒を口にする。
そして、誰にも聞こえぬほどの声で、ぽつりと呟いた。
「香は咲いた。あとは……誰が、筆を寄せるか」
香殿には、まだ春の香が満ちていた。
だが、これはただの祝いではない。
香で結ばれ、香で導かれ、香で裁かれる――
そんな未来の、はじまりの一話だった。