第12話 香が問うたのは、忠か愛か
― 皇太后《葵》と内大臣家の面会 ―
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には創作上の表現が含まれています。
“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆序章 10 登場人物
▸ 葵皇太后:俊遠の姉。後宮の空気そのものとして君臨する女帝。
▸ 俊遠:前・内大臣。甘党の隠居貴族。妹の前では弱音も漏れる。
▸ 兼雅:現・内大臣。白雪の夫。甥として皇太后と謁見する。
▸ 白雪:左大臣の三女。内大臣家に嫁ぎ、“白銀香殿”を治める姫。
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後宮・御香殿の奥、
御簾の向こうには一切の声も影も届かない――と、宮中では噂されていた。
葵の皇太后様
現帝の御母、先帝の后。
名を呼ばれることなく、ただ“気配”と“香”で存在する、後宮の中枢。
その空間に、呼ばれたのは内大臣親子だった。
「……葵様が、我らを?」
俊遠の声には、珍しく緊張があった。
「どうも、“あの話”が耳に入ったようだな」
兼雅は頭を抱えた。
“白銀香殿に嫁いだ白雪姫が、ご懐妊されたかもしれぬ”
――そんな噂が、どこからともなく広がっていた。
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御簾の奥、香炉の蓋が静かに閉じられる音がした。それが“入れ”の合図だった。
ひとりの女房――長年仕えてきた老女のみを残し、あとはすでに人払いがなされている。
「お入りなさい。俊遠。そして兼雅」
声は変わらぬ静謐。
けれど、香が一段階、厳しくなった。
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「まさか、お主たちまで“左大臣の香”に包まれるとは」
葵の第一声に、俊遠はひたすら頭を垂れる。
「……妹にこうも叱られる日が来ようとは……」
「叱ってはおりません。ただ――」
ふっと、風が流れる。香がひときわ、白く煙った。
「“忠”を装い、“愛”に溺れてはならぬ。それだけのこと」
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「白雪姫は、我が家の誰よりも気品ある姫にございます。兼雅が心奪われるのも、無理はございません……」
俊遠がぽつりと漏らすと、
「……あの子も、“弟の子”だったのですね」
葵は初めて、御簾の奥で微笑んだようだった。
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「この数か月で、貴方の家は変わりました」
「香が、家の中で温かくなりました。あれは……“女主の香”です」
兼雅は思わず目を見開く。
香を以て“家”の在り方すら読む――それが葵の真骨頂。
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「左大臣の娘が懐妊していると、後宮に伝われば、それは“内大臣家が左大臣派についた”という合図にされかねません」
「……ならば、我らはどうすれば?」
兼雅が問う。
「“香”で問われたら、“香”で返せば良い」
「けれど、香は――忠にもなれば、愛にもなる」
「我が問いたいのは、その子に“何を伝えるつもりか”です」
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葵は、香炉の蓋をそっと開けた。
白梅と月白香の薄香が、空気に淡く広がる。
「貴方の家の香が、このまま静かでありますように」
「それが、“皇太后”としてではなく、“姉”としての、私の願いです」
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その夜――
白銀香殿では、白雪姫がそっと筆を取り、硯に水を垂らしていた。
「香が、少し変わった気がします……」
手を止めた兼雅が、その背に歩み寄る。
「香で会話する方々に囲まれて……
私も、少しずつ“言葉にならぬもの”が分かるようになってきた気がするのです」
彼女の言葉に、兼雅は頷いた。
「……ならば、この筆も、あなたに恥じぬよう使わねばなりませんね」
ふたりは香に包まれながら、
まだ名も無き命に、初めて“家”としての祈りを送っていた。
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そして――
白梅の香は、後宮全体に、静かに満ち始めていた。
それは誰のための香か?
“忠”のためか、“愛”のためか。
香だけが、それを語る。
序章【終】