第11話 夜に咲く、ただひとりの愛
― 右大臣家ver(藤真)/次代への期待と再起 ―
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆登場人物
▸ 藤真:右大臣家の長男。姉の香と甥の死を背負い、筆を執る決意。
▸ 茜皇后:藤真の姉。香で祈り、争わずに帝と国を支える皇后。
▸ 藤嶺:右大臣。沈黙と誇りの中に、筆で継がれる“名”を見つめる父。
▸明澄帝:現、帝葵皇后の息子で茜皇后の夫。
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その朝、藤真は静かに目を開けた。
寝殿の障子をすべて開け放つと、冬の冷気が紅梅の香を連れて流れ込んできた。
昨夜、姉が焚いた香が、まだ袖に残っている。
白梅と沈香――
それは、亡き皇子を弔うため、母が選んだ“最後の香”。
「争わず、祈りだけで包みたいのです」
姉の声は、消えぬ香のように、胸の奥で揺れていた。藤真は筆机に向かい、墨をする。
石の上に落ちる水音が、今だけ時を刻んでいた。
「……僕に、筆で何ができる」
兄ではない。帝でもない。
父のように、沈黙を貫くほどの強さもない。
だが、香では伝えられぬ想いがあるのなら――
「筆を持ちます」
その声は、風に溶けるほど小さかった。
最初に書いたのは、甥の名ではなかった。
「光」
その筆跡を、背後でひとりの男が見つめていた。
藤嶺。右大臣。
かつて、すべてを呑み込む沈黙を選んだ父。
「……その一画、迷いが残っているな」
藤真は肩を強張らせる。
「……父上」
「だが、それでいい。
この国を照らす者は、完璧な筆など持たぬ。
迷いながらも、なお光を選び続ける者、それが筆を執る資格だ」
父の言葉に、藤真は深く頭を下げた。
「甥の死を、香で伝えることはできません。
でも、あの祈りは筆で継ぎたい。
争わずに在り続けた姉の願いを、未来へ繋ぎたいのです」
藤嶺は何も言わず、筆机の脇にひとつの巻物を置いた。
「それは、お前の曾祖父が最後に記した政文。
結びに、こうある。
“この国は、光を筆にして進め”――と」
藤真の掌が、静かに震える。
「ならば、僕はその言葉に生きます」
その筆は、まだ未熟だった。
香ほど深くもなく、帝の筆ほど美しくもない。
だがその筆には、確かに“ひとつの道”があった。
「戦う筆ではなく、照らす筆を」
彼はもう一度、墨をつけ、
今度は、自らの名を書いた。
「藤真」
名を継ぐのではない。
香を模すのでもない。
筆で、“争わずに守る未来”を書く。
それが、藤真という名の――
**沈黙から生まれた“光の一筆”**だった。
◇
茜が香炉に白梅と伽羅を調合し直していた夜。
帝は、火が入る前に彼女の背後からそっと囁いた。
「……茜。私は、後宮が苦しい」
その言葉に、茜の手が一瞬止まる。
「どうしてですか?」
「葵様には“帝であれ”と常に言われる。
だが私は、貴女しか、愛せないのだ」
茜はゆっくりと振り向き、優しく微笑んだ。
「……そんなことをおっしゃれば、
葵様も、他の妃方も、お悲しみになりますよ?」
「そうかもしれない。でも、私には……貴女しか見えない。」
帝の手が、茜の頬に触れる。
「他の妃の名を呼ぶことも、香を共にすることもない。私のすべての夜と朝は――茜、貴女だけのものだ」
彼の額が茜の肩に落ちる。
「帝であることが、時に憎い。
でも……それでも、私は帝である限り、
貴女を守る権力を手放さないと決めている」
「――陛下……」
茜の細い指が、そっと帝の髪に触れる。
香炉から流れる香が、二人を包んだ。
帝の指が、そっと茜の首すじをなぞる。
「この香りが……私を生かしてくれる。
この肌が、私を帝ではなく、“男”に戻してくれる」
茜は静かに、彼の手を取る。
「……私は陛下の、ただの“妻”でありたい」
簾の中に身を寄せ、ふたりの香が混じり合っていく。
夜の沈香が濃くなる。
帝の指が、茜の髪を解き、額に、瞼に、頬に――そして唇に、何度も、確かめるように口づけを落とした。
「愛している。……この命に香が残るなら、
最期まで貴女の香と共に消えたい」
茜の指が、帝の背に回る。
香の煙が深くなり、灯だけが揺れ続ける中――
ふたりの影は、静かに寄り添い、やがてひとつに溶けた。帝の愛は、夜の奥で囁かれる。
ただ、貴女ひとりだけを愛していると。