第10話 彰という名に託すもの
右大臣家ver(茜皇后)/忘れられぬ子へ、香の祈りと名の贈り物
*-----------------------------*
(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆登場人物
▸ 茜皇后:右大臣家の姫。争わずに国を包む、“香の母”。
▸ 藤嶺:茜皇后の父、右大臣。沈黙の政治家。
▸ 藤真:茜皇后の弟。皇后の香を受け継ぐ“次の筆”。
▸ 帝《明澄》:現帝。静かなる文化派。茜を「安らぎの后」と称す。茜皇后を愛してやまない。
*-----------------------------*
その夜、香炉に火を入れたのは、皇后自身だった。
白檀に梅、そして沈香を一滴だけ。
この香は、彼女が最初に母となったとき、焚かせた香だった。
御簾の奥、誰もいない。
帝も、侍女もいない時間。
「陛下が、微笑んでくださるなら。
私は、この香で、すべてを包みます」
言葉にせず、手だけが香を調える。
静かで、柔らかで――痛みを知らぬ者には届かぬ香。
第一皇子は、生まれてすぐに、逝った。
誰もが「病」と言った。
けれど――母である茜だけは、香に違和感を感じていた。
産室に残された、焦げた香炉。
女房の沈黙。
夜中に消えた足跡。
「そのすべてが、私に真実を語りました」
けれど彼女は、叫ばなかった。
泣かなかった。
ただ――香だけを変えなかった。
「争えば、あの子の香が濁ってしまう」
「怒れば、陛下の目が曇ってしまう」
「私は、ただ、静かに香り続けるだけ――」
そこへ、ふと気配が届く。
「姉上……」
藤真だった。
右大臣家の嫡男。
けれど、姉にとっては、あの頃のままの“真”だった。
「その香……皇子のために?」
「いえ……もう、あの子のためではありません。
これは――私が“母”であった証として焚いている香です」
藤真は黙って、膝をつく。
姉の声の奥に、初めて“痛み”を感じた。
「私は、あの子を護れませんでした。
けれど、あなたには――
筆で、“未来”を護ってほしい」
「香では届かぬ場所に、筆は届きます」
「だから、あなたが書いてください。
私が“争わずに生きた”ことを」
藤真の目に、光が揺れる。
「姉上……僕は、香で癒せません。
けれど筆でなら――誰かの心を支えられる気がします」
茜皇后は、そっと香炉の蓋を閉じた。
「争わぬことは、弱さではありません。
香は、刀より強く、筆より深く、命を包みます」
◇
夜の帳が落ちるころ、後宮・東の御殿では、白梅と沈香が静かに焚かれていた。
茜皇后の香だった。
その香を辿って、帝は静かにやってきた。
簾の奥で火を見守っていた茜は、香の流れが変わったことで、彼が来たと気づく。
「陛下……」
「今宵も、貴女の香に導かれてしまった」
帝は、そっと茜の横に座る。
そして、手のひらに包んでいたものを差し出した。
それは、一枚の小さな紙。筆でたった一文字が書かれていた――『彰』。
「……この子に、この名を贈りたい。遅すぎたかもしれぬが……」
茜は目を伏せ、指先でそっとその文字をなぞった。
「……陛下が、名をくださるなど
この子も、きっと――」
「この子は、私たちの光だ。たとえ命を短く終えたとしても、私と貴女の間に“輝いていた”証だ」
茜の目に、静かな涙が浮かんだ。
香の火が、ふと揺れる。
帝は、その肩にそっと手を添えた。