第9話 紅梅の庭で、沈黙が咲く
― 右大臣家ver(藤嶺)/第一皇子の喪失と“消された香” ―
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(※本作は、平安時代をモチーフとした異世界転生ファンタジーです。
宮中の制度や人物設定には、創作上の表現が含まれています。
あくまで“平安風”幻想世界として、筆と祈りの物語をお楽しみください。)
◆登場人物
▸ 茜皇后:亡き我が子を、香で弔い、誰も責めずに守る母。
明澄帝:▸現皇帝:優しくて静かな皇帝。茜皇后のみを唯一愛する。
▸ 藤嶺:右大臣。第一皇子の不審死を“沈黙”で包む男。
▸ 藤真:茜皇后の弟。で右大臣の長男“筆で名を継ぐ”決意の若き継承者。
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──庭に、紅梅が揺れていた。
あの日と同じ香が風に乗る。
けれど、そこには、もうひとつの香が残っていた。
それは――焼け焦げた香炉の痕。
右大臣家の内殿。
亡き第一皇子が息を引き取った間。
そこに残っていたのは、わずかな焦げ。
香炉の底が、黒くただれていた。
「香を焚きすぎたとでも?」
藤嶺はその言葉を、誰にも問わなかった。
焚かれていた香は、決して子に使わぬ配合。
柊と甘葛。
香司であれば、すぐに“不穏”と気づくもの。
だが、それを焚いた女房は――翌朝、姿を消した。
「偶然ではない」
「けれど、証拠もない」
藤嶺は、沈黙を選んだ。
その夜、寝殿。
茜皇后は、香炉の前に座っていた。
白梅と撫子、そしてかすかな鈴蘭を配した香。
それは、生まれてすぐに与えた“我が子の香”。
「この子は、香でしか記憶を持てません」
「だから私は、香だけは変えないと決めました」
茜は静かに言った。
帝にも、藤嶺にも、誰にも怒らず、ただ香を焚いた。
「……お前は、それでも争わぬか」
藤嶺の声は、静かに揺れた。
「私は、“皇后”です」
「子を失っても、帝の名の下に微笑まねばなりません」
「……それがこの世の、香というものです」
紅梅の庭。
藤真が立っていた。
兄と同じ構えで、筆を握ろうとしていた。
「父上、この香……何か、少し焦げていませんか?」
藤嶺は、ふと視線を外す。
「香とは、“過去”を語るものだ。
だが、我々が今語るべきは、未来だ」
藤真はうなずき、筆を取った。
亡き第一皇子は、名を持たぬまま香に包まれた。
その香の底にあった“焦げ”は、誰にも語られず、
ただひとり、父だけがその煙を胸に刻んだ。
沈黙とは、すべてを知りながら、守ること。
* * *
その夜――
御簾の奥、香はごく薄く焚かれていた。
白梅に、撫子、そして沈香を一滴。
静かな、母の香。
その香のもとに、明澄帝は音もなく歩み入った。
茜皇后は、香炉の前に座していた。
膝の上に、ただひとつの小さな衣をのせて。
「……また、その香を」
帝が、穏やかに口を開いた。
茜はうなずかず、ただその小さな衣に視線を落としたまま、言葉を紡いだ。
「忘れたくないのです。
忘れれば、“この子がいた”ことさえ、宮中から消えてしまいそうで」
帝は、そっとその背後に膝をついた。
そして、静かに茜の肩へ、手を伸ばした。
「あなたは、よく耐えてくれました」
「私は……母ですから」
「だからこそ、私はこの子に“名”を贈ろうと思います」
茜は、はっと目を上げた。
「……陛下?」
帝は、香の中で目を閉じ、優しくその名を口にした。
「――彰
この子は、わずかしか生きられずとも、私たちの中に光を残した。ならば、“輝いた命”として、その名を授けたいのです」
茜の目に、初めて涙が浮かんだ。
静かに、こぼれる。
香の煙に揺られながら、それでも、止まることはなかった。
「……ありがとう、ございます。この子の命に、“光”の名を……」
帝はそっと、その背を抱いた。
「私は、あの夜、あなたの香に救われました。
香で泣き、香で祈り、香ですべてを包んでいたあなたに」
「だから、この子の名は――“あなたの愛”が込められた名です」
茜は、小さな衣を抱きしめた。
その中に、ようやく宿った“名”という重さ。
「彰我が子よ。香の底にあっても、お前の名は、父の言の葉から生まれたのね」
その夜、御香殿の香は、ゆるやかに変化した。
“母の香”ではなく、“光を与えられた子”の香へ――
それは、亡き命が“名”を得て初めて、
この世に確かに存在していたことを告げる、静かな儀式だった。