花を愛でる心
「綺麗ね……」
「ああ、本当にね……」
「ん? あら、見てないじゃないの」
「いや、ちゃんと見てるさ。本当に綺麗だ……」
「もう、馬鹿ね……」
腕を組み、寄り添う男女。柔らかな光が二人を包み、肌を撫でる風はどこまでも優しい。笑い声は踊りながら空気に溶け、淡く色づくように広がっていく。
彼女はふと、空から舞い降りる桜の花びらにそっと手を伸ばした。けれど、花びらは指の間をするりと抜け、くるくると舞うように風に運ばれていった。
男は花びらの一つを、開いた手のひらの上にそっと乗せ、彼女へ差し出す。二人は顔を寄せ合い、まるで赤ん坊の寝顔を覗き込むように、その儚い花びらをじっと見つめ、微笑んだ。
「綺麗ね……」
「ああ……」
「もう、また見てないじゃない。せっかくの桜並木道なのに。ほら、もうすぐ抜けちゃうわ」
「だから見てるよ……君をね」
「もう……ふふふっ」
「あははっ」
「あっ、ほら見て。素敵な藤の花!」
「本当だ。まるで紫のシャンデリアだ!」
「綺麗ね……丸ごと持ち帰れたらいいのに」
「なるほどね」
「え?」
「いや、僕には必要ないからさ。君という花があるから。ただ、花は自分を愛でることができない。それが悩みなんだなって思ってね」
「またそんなこと言って、もう……あ、今度はアジサイよ。素敵ね」
「ああ、ステンドグラスランプみたいだ。おっ、あっちの池には蓮の花が咲いてるよ」
「綺麗ね……あ、紅葉だわ。真っ赤ね……」
「ああ、血みたいで嫌だね」
「そう? 素敵じゃない。ほら、このポインセチアなんて可愛い」
「ふふ、まあ、君が言うなら」
「あなた……」
見つめ合う二人。心の距離を縮めるように、唇がそっと近づき――。
「お疲れさまでした。シートベルトを外しますね。はい、降りてどうぞ。季節の花々はいかがでしたか?」
「ああ、実によかったよ」
「ええ、本当に」
現代。環境変動の果てに、四季は崩壊し、この地に残ったのは夏と冬だけになった。気温の急激な変動は多くの植物を滅ぼし、桜は花を咲かせると同時に雄々しい葉を広げ、紅葉は色づく間もなく散っていった。
人類は、花々を守るために『季節保存センター』を設立。来訪者は電動シートに身を預け、制御された人工気候の中で、失われた四季の花々を堪能できる。
センターの外に出た二人は、呼び寄せた車に乗り込んだ。
男はそっと彼女の手に自分の手を重ね、微笑んだ。彼女はその顔をじっと見つめると、ぽつりと呟いた。
「……何? 気持ち悪いんだけど。あ、まだオフにしてないの?」
「ん? ……ああ、そうだった。これでよし……じゃあ、帰ろうか。車を動かすよ」
センター内では没入感を高めるため、感受性を刺激する特殊な電波が発信されている。来訪者はそれを、脳内に埋め込まれたチップ――マイナンバーチップ――を通じて任意で受信することができる。
チップからの信号を受け取り、自動運転の車が滑るように走り出す。男はシートに身を預け、どこか寂しげな顔で窓の外を見つめた。
そこには、一本の草木もない荒涼とした風景がどこまでも広がっていた。