眠る君と起きる俺〜真面目だった君と意外に真面目な俺〜
◇
「俺達って、そんなに親しくなかったよな」
空は夏にやられていた。
うだるように白旗を上げる入道雲。
窓の外で佇んでいる寒蝉の鳴き声。
運動場側の窓から差し込む西陽。
夕陽が教室の左側を照らす度、教卓の頬が茜色に染まる。
教室に染み込んだ学校特有の臭いが、卒業生である俺を優しく出迎えた。
「そんな事ないでしょ。私、学級委員長だったのよ。それなりに仲良かった筈」
「親しかったら、それなりなんて言葉なんてでない筈なんだよなぁ」
「確かに」
十年振りに見る教室は、あの頃のままだった。
使い古されてオンボロになった幾多の机。
木の部分が所々欠けてしまっている椅子。
ワックスがこびりついた床は独特な匂いを発しており、教室全体を見下ろす黒板は年老いたままだった。
「で、最近どう?」
「別にフツーだよ。フツーに働いて、フツーに生きてる」
『彼女』の問いに答える。そこそこ年老いた俺とは違い、『彼女』は当時のままだった。
「年収は?」
「そこは『何の仕事をしているの』って聞くところだろ」
「あんまメジャーそうな仕事しているように見えなかったから、つい」
「うっせー」
古びた椅子に身体を預けながら、廊下側最後尾の席に座る『彼女』を一瞥する。
久し振りに会った『彼女』はニヤニヤ笑いながら、身体の正面を俺の方に向けていた。
運動場側の窓から一番近い癖に教卓から一番遠い席──通称主人公席に座りながら、俺は欠伸を浮かべる。
そんな俺を見ながら、『彼女』は瑞々しい声で疑問を繰り出した。
「もう結婚した?」
「いや、結婚してもいなければ、その予定もねぇ」
「もしかして、あんた、生涯独身を貫くつもり系男子なの?」
「いや、結婚するつもりはあるよ。ただ、つい先日、二年付き合っていた彼女に『別れよう』って言われたばかりというか……」
「何でそれ言われたの」
「黙秘権使ってもいいっすか」
「いいよ。そこまで興味ないし」
「それはそれで何かモニョる」
「ねぇ。最近、何が流行ってるの」
「うっせぇわ」
「何で急にキレてんの」
「いや、『うっせぇわ』って曲が一時期流行ってたんだよ。確か……、二年か三年くらい前に」
「二年三年って、最近じゃないじゃん。老化始まっているじゃん」
「うっせぇ、お前が思っているよりも若いっての。まだギリ二十代舐めんな」
「その発言自体が加齢臭漂っているんだけどなぁ」
「正論パンチ、本当やめろ。アラサーの泣き顔見る羽目になるぞ」
過ぎた春が郷愁を呼び起こす。
本当、あの頃のままだった。
教室も。
差し込む西陽も。
教室に染み込んだ匂いも。
そして、『彼女』の姿も。
全部、全部、青春のままだった。
「いや、……本当、久しぶりだね。元気にしていた?」
廊下側の一番後ろの席に座りながら、『彼女』は呟く。
廊下側は西陽が当たっておらず、昏い影が『彼女』を、『彼女』が座っている椅子を、そして、廊下側で屯する机達を、呑み込もうとしていた。
その有様は異様で、異常で、異彩で。
窓の隙間から流れ込む冷たい風が、この状況の異様さを醸し出していた。
「元気な時もあったし、元気じゃなかった時もある」
「こういうのって、フツーは『元気にしていた』って答えるべきじゃ?」
「悪いな。社会人になって気づいたんだけど、俺、結構真面目な方だったんだ」
「えー、嘘だー。遅刻魔だった癖に」
「俺は遅刻魔じゃない。朝が俺を赦してくれなかったんだよ」
ぎこちなく笑いながら、『彼女』は俺を遅刻魔呼ばわりする。遅刻魔だったのは事実だったので、具体的に反論できなかった。
「わ、懐かしい。そういや、遅刻する度にそんな訳分からない事を言ってたよね」
距離があるからだろうか。
『彼女』の顔は鮮明じゃなかった。
少しだけボヤけているように見える。
何故か知らないけど、肌寒さを感じてしまった。
いつの間にか着ていた学ラン如きでは耐えられない冷気が心身を犯す。
それに嫌悪感を抱きながら、俺は口の筋肉を強張らせた。
「にしても、本当久しぶりだね。最後に私達が会ったのって、いつだっけ」
校舎の中を満たし始めた夜の闇が廊下側窓付近にいる『彼女』の身体を呑み込み始める。
運動場側の窓から差し込む西陽はというと、まるで俺を急かすかのように教室の半分を爛々と照らし続けていた。
「──お前の命日前日だよ。俺達が最期に会ったのは」
夜の闇が滲み寄っている事を身体全体で感じ取る。
何も感じ取っていないのか、『彼女』は生前と同じように学生服に身を包んだまま、生気のない瞳で俺を見つめ続けていた。
『眠る君と起きる俺』
◇
知り合い以上級友未満。
俺と『彼女』の関係性を言葉で言い表すと、これ以上のものはないだろう。
そう確信してしまう程、俺と『彼』の関係は浅く、薄いものだった。
俺と『彼女』は同じ中学校に通っていた。
けど、クラスも部活も違かったので、顔と名前を知っているだけの関係──知り合い未満だった。
『彼女』と初めて言葉を交わし、知り合い未満から脱却できたのは、……確か高二の時だったと思う。
顔見知りだった俺達は同じクラスになった事で知り合いにランクアップした。
『彼女』と同じクラスになった。
でも、仲良くなるキッカケがなかったので、あまり話さなかった。
けど、一切話さなかった訳じゃない。
『彼女』は学級委員長だった。
なので、遅刻してくる俺に何度か『遅刻するな』的な事を言っていたような気がする。
当時、真面目である事に嫌悪感を抱いていた俺は、『彼女』の小言を軽く聞き流していた。
でも、『彼女』は小言を言うだけで特に怒ったり呆れたり悲しんだり哀れんだりしなかった。
多分、義務的に委員長としての役目を果たしていたんだろう。
遅刻を繰り返す俺に対して、興味も関心もなかったんだろう。
だから、俺と『彼女』の間に恋愛どころか友愛さえもない。
嫌悪や憎悪といった悪感情もない。
知り合い以上友人未満。
ただのクラスメイトという言葉で終わらせるには関係が深過ぎるし、友人と称するには距離があり過ぎる。
そんな独特な関係。
それが俺と『彼女』の距離感だった。
「一つ聞きたい事があるんだけど」
「うん、なに?」
「どうして俺なんかの夢に出てきたんだよ」
「あ、これが夢である事に気づいているんだ」
あっさり俺の推測を認める『彼女』。
どうやら『彼女』は何かしらの方法で俺の夢枕に立っているらしい。
「もっといい人がいただろ。俺とお前って友人でさえなかったし」
廊下側一番後ろの席。
そこに座っている『彼女』の顔は不明瞭だった。
幾ら目を凝らしても、『彼女』の感情を感じ取る事ができない。
出来損ないのマネキンと話している気分だ。よくよく聞けば、『彼女』の口から出ている言葉もノイズのようなモノが走っているような気がする。
「なあ、お前は何者なんだ。幽霊なのか? 俺の夢が生み出した幻なのか。それとも、……」
「なんか、君と話したいなぁって」
俺の質問が気に食わないのか、『彼女』の声が少しだけ曇る。
顔色がよく分からないので、怒っているのか悲しんでいるのかさえ分からなかった。
その所為で、紡いでいた言葉が途切れてしまう。
今、俺が抱いている感情が郷愁なのか恐怖なのかどうかさえも分からなくなってしまった。
「……なんの話するんだよ」
「思い出話、……とか?」
「思い出、なんかあるか?」
何気なく繰り出した俺の疑問。
『彼女』はぐぬぬと唸りながら、おやつを我慢している犬のような表情を浮かべつつ、思い出話を捻り出す。
「自然教室とか?」
「いつ行ったかさえ覚えてねぇよ」
「入学式終わって、一ヶ月経った辺り……、だったような」
「お前も覚えていないんかい」
「ずっと回れ右とかさせられてたような」
「あー、あったような無かったような」
「野古島に遠足行ったよね」
「覚えてねぇー」
「ほら、高谷くんが一人で観覧車に乗ってたじゃん」
「エピソードが地味過ぎる。もっと『あー、それあったなー懐かしいなぁ』みたいな事を思えるインパクト強めのエピソードねぇのか」
「じゃあ、体育祭」
「赤組だったのか白組だったのかさえ覚えてねぇ」
「忘れ過ぎでしょ。逆に何か覚えている事ないの?」
「修学旅行なら、そこそこ覚えているぞ」
「ごめん、私、その話できないや。修学旅行行く前に死んじゃったし」
運動場側の窓から差し込む西陽。
学校周りを茜色に染め上げる夕陽が山の陰に隠れ始める。
教室を満たす闇が少しずつ深くなり、学校特有の匂いが深みを増し始める。
「入学式の話はどう? それさえも覚えていない感じ?」
「教室が嘘みたいに静かだった事だけは、何となく覚えている」
「あ、私も覚えている。誰も口開こうとしなかった所為で、教室が『しーん』ってなってたよね。体育館に移動する時も喋り声無かった所為で、足音しか聞こえなかったし。本当、入学したての頃の独特な雰囲気はインパクト強過ぎて忘れられないよ」
「あー、そんな事もあったような」
「……本当に覚えていないの?」
「高二や高三の時は薄っすら。でも、もうそれさえも朧気だ」
「……」
「一応、十年経っているからな。そんなもんだろ。委員長だって、十年前……たとえば、幼稚園の頃なんか殆ど覚えていないだろ。それと同じだよ」
「あー、なんとなく言いたい事分かったような……」
とうとう話が途切れてしまう。
当たり前だ。
俺と『彼女』は親しくない。友達でさえない。
知り合いではあるが、共に過ごした時間は皆無と言っても過言じゃない。
語れる程の思い出が積もっていない。
だから、こうなるのは自明の理。
不自然な所は一切ない。
「……なぁ」
静寂を敢えて破る。
声を発すると、遠くにいる『彼女』の身体の輪郭が少しだけ崩れる。
教室内の気温が少しだけ下がる。
肌寒い風が制服を突き破り、皮膚に突き刺さってしまう。
「なんで、俺を此処に呼んだんだ」
一番聞きたかった事を口にする。
でも、こんな疑問如きでは『彼女』の心は動かなかった。
なので、もう一度似て非なる言葉を口にする。
「なんで俺なんかを選んだんだよ」
案の定、『彼女』は答えなかった。
背中に当たる陽射しが、俺の後ろ髪を引っ張る。
それを感じた途端、この時間が長くない事を肌で感じ取った。
◇
「君ってさ、よく遅刻していたよね」
教室が夜の彼方へと導かれる。
地平線の彼方に沈もうとしている夕陽は怯えているかのように山の陰に隠れ、薄雲を照らすかのように星が瞬き始める。
「一限目の授業に参加しないのは当たり前。酷い時は午後から学校に来ていたよね」
「あー、そういや、そうだったな」
「どーして遅刻を繰り返していたの。というか、午後から学校に来るくらいだったら休んだ方がマシじゃない?」
「俺が遅刻してたのは、遅刻したいからじゃない。朝起きれなかっただけだ」
「どうして」
「当時、ゲームにハマってたんだよ。夜遅くまでゲームしてたから、朝起きられなくて。その所為で、遅刻しまくってたんだ」
「そのゲームのために、学校休もうって一度も考えなかったの?」
「ああ」
「変なところで真面目なんだね」
「高校卒業して、大学でそこそこ勉強しつつ遊んで、社会人になって色々揉まれた結果、俺、気づいたんだよ。俺って、意外と真面目なタイプなんだなーって」
「真面目な人はゲームのために夜更かしたり、遅刻したりしないと思う」
「だから、敢えて『意外と』って言葉を付け加えたんだよ。『真面目』と『意外と真面目』は似ているようで全然違うからな」
「どういう違いがあるの、それ」
「不真面目な部分を『ま、いっか』で流せるかどうか、かな。ほら、真面目な人は『ま、いっか』で流さないし、流せないだろ? でと、意外と真面目な人は『ま、いっか』で流すせる。多少不自然でも流してしまう。不真面目な自分を『ま、いっか』の一言で正当化してしまう」
「………」
「簡単に言っちゃうと、真面目である事に拘りがないんだよ。遅刻して先生から怒られたとしても、周りから遅刻魔呼ばわりされても、不真面目という烙印を押されたとしても、意外と真面目な人はそれを気にしない。だって、生きたいように生きているだけだから」
「だから、学生時代は寝坊し続けてたの」
氷像のように身体を固めたまま、『彼女』は無機質な声色で俺の視線を蠱惑的に惹きつける。
夜の闇が『彼女』の身体の大半を包み込んでいた。
まるで黒いドレスを着ているみたいだ。
そんな事を思っていると、何故か冷気を感じ取ってしまう。
指先が微かに揺れ始める。
「寝坊したら、先生や親に怒られていたでしょ。それは嫌じゃなかったの」
「嫌だったさ。でも、『ま、いっか』で片付けた」
「じゃあ、今も『ま、いっか』で会社遅刻したりしているの?」
「いんや、社会人になってからは一度も遅刻していない」
冷たい感触が足下を湿らせる。
視線を下に向けると、薄暗い夜の闇が足先を突いていた。
この闇は一体何なのか。
そんな事を考えていると、天井から嫌な音が鳴り響く。黒板に亀裂が走り、天井に吊るされていた電光灯が『パキン』と唸り声を上げる。
「どうして遅刻しないの」
「学生の時と違って、遅刻したら他の人に迷惑かかっちゃうんだよ」
まるで水の中にいる気分だ。
教室の窓硝子が独りでに割れる度、息がし辛くなる。指一本動かす事さえ難しくなり、身体の動きが徐々に鈍くなる。教室全体が不可視の水で満たされているみたいだ。
「学生の時も遅刻する度に先生その他に迷惑かけてたけどさ、社会人の遅刻は学生の比じゃない。『ま、いっか』で終わらせれる程、社会ってもんは単純なヤツでも温厚なヤツてもない。数学のヤマセン以上に狭量なんだよ。上司や部下が寝坊を許してくれても、社会が寝坊を赦してくれない」
壁にもヒビが入り始めた。
掃除道具用のロッカーが倒れ込み、うつ伏せの体勢になる。
俺と『彼女』の間にあった数多の机椅子は横揺れに耐え切れず、頭から転げ落ちてしまう。
その間、足下に潜む闇は俺の両脚を湿らせ、心臓の鼓動音を不気味かつ無様な形に歪ませた。
「じゃあ、もう遅刻魔じゃないんだ」
「今は、な。もしかしたら、近い将来『ま、いっか』使うかもしれないけど」
「それ使ったら、他の人に迷惑かかるんじゃないの」
「言っただろ。俺は意外と真面目な人間なんだって。遅刻魔だったのも、今ちゃっかり社会人やっているのも、生きたいように生きている結果だ。特に深い意味はない」
夜の闇が喉に絡みつく。
突起物が首の皮を薄く貫いたような気がした。
手脚の先が氷みたいに冷たくなる。
『彼女』という死に近づき過ぎた。
意識が朦朧し、宵と夜が競り合う教室に『死』の一文字が微かに浮かび上がる。
「私さ、一回だけ遅刻しちゃったの」
夜の闇は『彼女』の身体も包んでいた。
朧気だった輪郭が更に朧気になり、『彼女』の表情どころか身体さえ認知し辛くなってしまう。
「事故に遭った日ね、私、二十分だけ寝坊したの。このままじゃ間に合わないって思って、私、朝ご飯を食べず、慌てて出て行ったの」
夕暮れの教室が夜闇に浸る度、手脚の力が抜け落ちる。
心臓の鼓動が徐々に遅くなり、自分の意思で身体を動かす事さえできなくなる。
怖い。
平々凡々な人生を送ってきた俺にとって初めての感覚。
一度も味わった事のない感覚。
それらが俺の首や胴体を強く締め上げる。
呼吸する事さえ難しくなり、廊下側に設置されていた教室の扉が、不可視の力によって閉められてしまう。
「朝ご飯を抜いたお陰で、走らなくてもギリギリ教室に入れる時間だった。でも、出て行った後に宿題を家に忘れた事に気づいて……、私、慌てて取りに帰って、歩いて行ったの。そしたら、走らなければ間に合わない時間になって……、だから、私、走ったの」
教室の中にあった多数の机が破裂する。
幾多の椅子も独りでに壊れ、黒板の前で暇を持て余していた教卓が寿命を終えたと言わんばかりに、砂のような物質に変わり、床の上に散らばってしまう。
「走って、家に戻って、宿題を回収して、また走って、……遅刻するのが嫌だったから、そうしたら、走るのに夢中になって、……周り、見えなくなって、赤信号で渡ったら車がドーンってぶつかって……そして、気づいたら、死者に(こう)なっていた 」
どぼん。
重々しいものが水の中に投下された時に生じる音。
それらが鳴り響いた途端、教室全体が割れ、俺達の身体は水底に沈み始めた。
「怒られるのが嫌だった。寝坊したのも、宿題を忘れて引き返したのも、車に轢かれたのも、全部私の所為。だから、誰にどう説明しても、私は怒られてしまう」
沈み始めたのは、俺達だけじゃなかった。
天井も床も壁も教卓の残骸も割れた蛍光灯も、全部水の底に向かって突き進む。
「怒られるのは嫌なのか?」
見知らぬ水の中を漂いながら、『彼女』に疑問を投げかける。
とうの昔に『彼女』の身体の輪郭は朧気になっており、考えや表情どころか何をしているのかさえ分からなくなっていた。
「……うん。だから、遅刻は嫌だった。だから、私は全力で走って……そして、……」
水の中にいるにも関わらず、俺の言葉は『彼女』に届いていた。
でも、言葉を出す事ができるだけで、息ができない。その所為で、非常に息がし辛い状況が延々と続いていた。
「ねぇ、××。私と一緒に寝ない?」
酸素が不足する。
意識が混濁する。
思考が思った通りに動いてくれず、『彼女』の言葉を聞き逃してしまう。
「今だって朝起きるの嫌いなんでしょ。仕事も好きでやっている訳じゃないんでしょ。学生の時みたいに、漠然と日々を過ごしたい。そう思っているんでしょ」
水底に辿り着く。
やはりと言うべきか。
辿り着いた先も教室だった。
椅子に座ったままの俺の頬を夜が頬を撫でる。
いつの間にか陽は落ちていた。
西陽は山の陰に隠れているし、校舎から遠く離れた電灯が教室を微かに照らし上げる。
それを見て、俺は何故か思った。生と死の混濁が終わりかけている事を。
「今なら惰眠貪り放題だよ。いつ寝ても、長く寝ても、誰も君を咎めない。遅刻を咎めるのは、時間に縛られている生者だけだから」
欠伸を浮かべる。
目蓋が重力に押し負け、身体全体が鉄のように重く、節々が石みたいに固くなる。
息ができない。
死ぬ。
このまま目を閉じたら、いや、一度でも思考を止めたら、死ぬ。
一瞬でも気を抜いたら、即座に息絶える。
「死者達は時間なんてものに左右されない。生きている人達と違い、死者達は真面目でいる理由も必要もない。人が真面目になるのはね、秩序があるからじゃない。寿命が有限だから、人は真面目になっちゃうの」
「…………本当にそうか?」
眠い。夢の中なのに眠い。
欠伸をしてしまったら、ガチで眠ってしまいそうだ。
眠気を身体から追い出すため、右頬を抓る。
痛くない。
舌を噛む。
全然痛くない。
たったそれだけの動作で自力で夢から抜け出すのは、不可能だと理解した。
「……あ」
どうしようか、どうするべきか。
そんな事を考えていると、教室の外から喧しいメロディが聞こえてくる。
スマホに搭載されている目覚ましアラームだ。
どうやら、そろそろお目覚めの時間らしい。
黒板の上で陣取っていた時計が動き始める。
時計の針は逆に回転し始め、窓から差し込む弱々しい夕陽が徐々に明るさを取り戻し、夕陽の温もりが背中に突き刺さる。
「起きるつもりなの」
「ああ」
時計の針が逆回転し始める。
山陰に隠れた夕陽が昇り始め、東の空に向かって駆け出し始める。
有限だった筈の時間が、巻き戻り続ける。
それでも、教室は破損したままだったし、『彼女』の姿は認知出来ない程に朧気で儚げだった。
「何で起きるの……? 寝坊したら怒られるから……?」
「別に怒られるのは今でも怖くない。けど、今の俺が遅刻したら、他の人に迷惑かけちまう」
「……そっかー。大人になったんだ」
ひび割れた『彼女』の声が水を吸った雑巾のように湿る。
その声を聞いて、俺は違和感と不快感を同時に抱いた。
「いいよね、君は大人になれて。私は君と違って、真面目に生きていたのに。一回も遅刻する事なく、真面目に学校に通っていたのに。あの日も遅刻しないように一生懸命に走ったんだよ。その結果が事故死。たった一回のミスで大人になれなくなっちゃった」
首に纏わりつく闇が鼓動する。
手足や胴体にも闇がしがみつき、俺の身体を圧迫しようと脈動し始める。
反射的に席から尻を離した。
椅子の倒れる音と共に立ち上がる俺の身体。
けれど、動き出すのが遅過ぎた。
「ようやく分かったよ。私って子どもだったんだね。子どもだったから、君みたいに生きる事ができなかったんだね」
闇が首に食い込んだ。
息ができない状況に陥ってしまう。
それでも、発声機能は生きているのか、腕も足も動かせないけど、声だけは発する事ができた。
「自分を罰してもらうために、俺を此処に呼んだのか」
「分からない。気がついたら、君がいた。君の言う通り、もっといい人がいたかもしれない。なのに、どうしてだろう……私は君を呼んでしまった」
教室の外から聞こえてくる、スマホのアラーム音。
視界は不明瞭。
高熱が身体を蝕み、身体から力が根刮ぎ抜け落ちる。
いつ意識を失ってもおかしくない。
そんな状態で俺はゆっくり息を吐き出すと、身体の正面を『彼女』の方に向ける。
そんな俺の姿を見て、俺の心情を悟ったんだろう。
『彼女』は『そっか』と呟くと、哀しそうな声色を発する。
「やっぱ、怒ってくれないんだ」
「言っただろ、俺は意外と真面目な人間だって」
「もしかして、夢を『ま、いっか』で終わらせるつもりなの」
「『まぁ、いっか』で終わらせるべきなんだよ、君の人生は。最期の最後くらい生きたいように生きようぜ」
教室の外から聞こえてくるアラーム音が『彼女』の疑問を打ち消す。
視覚も嗅覚も聴覚も機能を停止し始め、俺の意識が暖かい場所に向かって走り始める。
朝の微睡に身を委ねかけたその時だった。
小さくて冷たい両手が俺の両肩を掴む。
すると、停止しかけていた視覚が、茜色に染まる小綺麗な教室だけでなく、いつの間にか目と鼻の先まで迫った『彼女』の顔を映し出した。
「本当に起きちゃうの?」
「もう話す事ないだろ」
「確かに」
先程よりも鮮明になった『彼女』の面。
久しぶりに見る『彼女』の顔は、記憶しているものよりも芋臭かった。
その顔を見て、これが夢だけど夢じゃない事を理解する。
目の前の『彼女』が『彼女』である事を。
「ねぇ、××くん。一人で起きれそう?」
「起きれないって言ったら?」
「手伝ってあげるよ。白雪姫スタイルで」
「そのスタイル、目覚めるのは俺じゃなくね?」
「じゃあ、確かめてみようか」
そう言って、『彼女』は艶のある唇を少しばかり尖らせ、目を瞑る。
本気なのか揶揄っているのか、分からない表情。
そんな茶目っ気のある表情を俺なんかに見せながら、『彼女』は唇を少しばかり尖らせる。
意外と真面目な俺は、首をゆっくり横に振る。
そして、わざと足音を立てると、一歩だけ後退した。
「じゃあ、そろそろ起きるわ」
『さよなら』を言うべきか、それとも『おやすみ』を言うべきか。意外と真面目な人間である俺は、つい迷ってしまう。
だが、そんな悩みは杞憂だと言わんばかりに、夢は唐突に終わりを告げ、俺はスマホのアラーム音を消すため、無意識のうちに右手を動かしてしまった。
◇
スマホのアラームを止めた後、欠伸を浮かべながら、トイレに向かう。
トイレで小さい方を出した後、洗面所に向かい始める。
洗面所に向かうと、呆けた面で後頭部を掻きむしる自分の姿が目に入った。
鏡に映る寝癖塗れの自分の顔を一瞥した後、顔を洗う。
寝癖塗れの髪を整える。髭を剃り、歯を磨く。
リビングに移動する。
部屋の隅で不貞腐れていたテレビにリモコンで呼びかけると、ニュースが流れ始めた。
動物園で象の赤ちゃん誕生。
闇バイト。
今月末に行われる衆議院選挙。
一週間前、関東で起きた震度五強の地震等々。
多種多様なニュースをぼんやり眺めながら、冷蔵庫から昨日の夜コンビニで買ってきたサンドイッチ二個を取り出す。
そして、今日のお天気を朗読するテレビと睨めっこしながら、サンドイッチ二個を胃の中に詰め込み始めた。
サンドイッチを平らげた後、今日使うカッターシャツにアイロンをかけ、忘れ物がないか確認し、今日の運勢を語ろうとするテレビの口を黙らせる。
カッターシャツとスーツで全身を塗り固めた後、俺は大きな欠伸を浮かべ、誰かに言い聞かせるかのようにデカい独り言を呟く。
「じゃあ、今日も頑張りますか」
家から出ようとする。
足を動かそうとした途端、今朝見た夢が脳裏を過った。その所為で、一瞬、ほんの一瞬だけ足を止めてしまう。
「……」
でも、夢の内容は曖昧で朧気だった。
どんな夢を見たのか具体的に思い出せない。
なので、心の中で『ま、いっか』と呟くと、再び玄関目指して歩き始めた。