第76話 ナイゼル側の動き
ナイゼル公子ベルナルドは次々に上がってくる報告書を見てワナワナ震えていた。
「海軍が敵船の砲撃の前に多数撃沈? イングリッドはノルンに帰国し、アークロイに対して臣従の誓いを済ませただと?」
他にもバーボンの魔法院がアークロイ公の領主権を承認、バーボンは亡命先で身動きが取れず、ノルンの魔法院でもナイゼル派は劣勢になっている、などなど上がってくる報告はベルナルドを不快にさせるものばかりだった。
「おのれ。アークロイめ」
あの妖精のようなイングリッドが、ノアの足下に跪いて、騎士の誓いをし、柔らかな唇をノアの指に押し付けているところを想像するだけでもベルナルドは腑の煮え繰り返るような思いになるのであった。
マギア圏の領主達もナイゼルから離れる動きを見せていた。
特に旧バーボン領付近の領主達は、アークロイ公国のバーボン併合およびノルンの従属を承認する方向で動いていた。
そればかりかナイゼルとアークロイの和平を促す声明を出している。
「ナイゼル公はアークロイ公と交渉の席を持つべし」
「ナイゼル・アークロイ両者は海の安全な航行および海上取引を保障しなければならない」
「マギア地方における安定的な魔石供給のために各国は連携すべし」
「ナイゼル、ジーフ、アークロイで3国鼎立して、勢力均衡を図ってみてはどうか」などと言い出す領主までいるほどだった。
アークロイ公国のマギア地方進出に懸念を表明したのはジーフ公国のみだった。
これらの世論はベルナルドの苛立ちを一層強めるばかりだった。
ナイゼル公国としてはこのようなことを認めるわけにはいかなかった。
このままいけば、ベルナルドはピアーゼ襲撃の責任について問われることになる。
(アークロイ……、私の野望をことごとく邪魔しおって)
だが、ベルナルドも黙ってこの状況を見過ごすつもりはなかった。
すでに手は打ってある。
もうすぐこのナイゼル・ジーフ・アークロイの三すくみ状態の局面を打開しうる駒がこの城までやってくるはずだった。
「ベルナルド様。ジーフ公国からの使者がお見えです」
「ノルンの魔法院がアークロイに掌握されたようですね」
ジーフ公国の使者はどこか可笑しそうにしながら言った。
ベルナルドはムッとする。
使者は構わず続けた。
「ノルン公イングリッドはアークロイ公の騎士となり、魔法院はアークロイ公国との繋がりを強める諸政策をどんどん決議している。これはもうノルンはアークロイの手に落ちたと見て良いでしょう」
「ノルンはまだアークロイのものではない!」
ベルナルドは机をドンッと叩きながら言った。
「アークロイはノルン公を騎士にしただけだ。ノルンの魔法院を手中にしたわけではない。一方、我がナイゼル公国はノルンの魔法院に対して多額の資金を貸付けている。なんならバーボンに対してもだ。故に我々はノルンとバーボンの魔法院に対して権利を有しており、両魔法院は我々の意思を尊重しなければならない。2つの魔法院が最大の有権者である我々を差し置いて、過剰にアークロイに肩入れするようなら、我々はノルンに対して報復する権利がある」
「しかし、アークロイはゼーテ解放の任務を神聖教会から任されているのですよ。今、いたずらにアークロイを攻撃すれば神聖教会からの批判は免れませんよ?」
ナイゼルもジーフも魔法院よりも神聖教会の権威が強い領地だった。
そのため、魔法院からの干渉は受けにくい一方で、神聖教会から批判されれば領民の支持を失う可能性が高かった。
「今、ノルンを攻撃すればナイゼルはいよいよ神聖教会に刃向ったとみなされるのでは?」
「我々が攻撃するのはあくまでノルン魔法院だ。アークロイではない」
「なるほど。わかりました。では、公子がマギア社交界でしばしば公言されていたノルン公との結婚計画。それについては断念なさる。そういうことでよいですね?」
「いや、イングリッドとの結婚を諦めるつもりはない」
ベルナルドは少し動揺しながらも首を振った。
「もし、ノルンが陥落した暁にはイングリッドの身柄は我がナイゼル公国に引き渡しをお願いしたい」
(そりゃ流石に無理筋だろ)
ジーフの使者は内心呆れずにはいられなかった。
ノルン公の立場からして、ここまであからさまに主権を侵害された相手と結婚などできようはずもない。
むしろイングリッドの性格からして、アークロイに亡命して反ナイゼル運動を続けそうだった。
(公子の偏執質にも困ったものだ)
ジーフの使者はそう思ったが、ここでは黙っておくことにした。
無理筋ではあるが、ジーフ公国にとってはそこまで重要な案件ではない。
「ナイゼル公子の言い分はよく分かりました。では、ジーフとノルンが長年領土争いをしているスピリッツの土地。あの土地の領有権についてはどう思われますかな?」
「……」
スピリッツにはマギア地方でも有数の採掘量を誇る魔石鉱山が眠っていた。
ノルンは最新鋭ゴーレムによる採掘技術でもって魔石を採掘していたが、良質な魔石が多数取れることが分かると、ジーフ公国はその土地の領有権を主張し始めた。
ジーフ公国が軍を派遣したため、ノルンはゴーレムと共に引き上げた。
ジーフ公国は自国の技術では岩盤深くに眠っている魔石を採掘できないため、ノルンに技術提携を持ちかけていたが、ノルンはジーフ公国によるスピリッツへの軍の進駐を不当な侵略・占拠として、抗議しているところである。
ただし、技術提携の選択肢だけは残しておき、ギリギリのところで交渉の席だけは保ち外交問題に留めて踏みとどまっていた。
イングリッドは交渉の席を残しながらも魔法院に軍の出兵を要請しようとしたが、当時の魔法院で意見が割れたため合意をまとめられず。
ノルンとジーフはジリジリとした駆け引きを続けながらも、ジーフが施設の建設や住民の移住などして着々と領有化を進めているという情勢である。
この件に関して、ナイゼルはノルン寄りだった。
ノルンの主張を支持し、ジーフの主張を批判してきた。
イングリッドがベルナルドを信用したのもこのためである。
スピリッツのジーフ領有を認めれば、たとえナイゼルがノルンの技術を手に入れたとしても、魔石を手に入れるにあたり採掘料をジーフに支払わなければならなくなる。
「あの土地は我々ジーフにとって固有の領土。ナイゼル公子もそれを認めていただけますな?」
「……いいでしょう。スピリッツはジーフ公国の領土です」
「それを聞いて安心しました。では、共にノルンを討ちましょう」
「お互いの利益のために……、いやマギア地方全土の利益のために手を取り合いましょう」
ベルナルドとジーフの使者は握手する。だが、心の底では互いに相手の裏をかく気満々であった。
(今はいい気になっているがいい。ノルンを取り返せば。そのあとは……)
(スピリッツの土地さえ押さえれば、ナイゼルには用無しだ。ナイゼルがノルン魔法院を掌握する前に事を急がなければな)
ともあれ、長年犬猿の仲であったマギア地方の2大国、城9つ持ちのナイゼル公国と城8つ持ちのジーフ公国の同盟がここに成立するのであった。