第33話 虎の鳴き声
騎士ヴァーノンとの不愉快な会談を終えたオフィーリアは、彼をほうほうの体で追い返した後も気が収まらず、この苛立ちをどこにぶつけてやろうかと考えていた。
結局、ノアに甘えることでストレス発散しようと思い立つ。
オフィーリアが騎士姿で登城すると、ノアはちょうど商人と話しながら廊下を歩いているところだった。
オフィーリアはノアの前に片膝をついて臣下の礼を取り、その手の甲に口付けした。
ノアは彼女がヴァーノンの申し出を断ったのだと察して安心したが、彼女がいつまでも手を離さずに頬ずりし続けているのを見ると、怪訝そうに首を傾げる。
「どうかしたのか?」と聞いても「ご主人様にあらせられましては、ご機嫌麗しゅうございます」と繰り返すばかりだった。
3回同じやり取りを繰り返して、ようやく彼女が甘えたいモードに入っているのを察した。
それまで一緒に話していた商人の方に向き直って言った。
「どうやらオフィーリアが何か緊急の用件を持ってきたようです。今日のところはお引き取りいただけますか」
怪訝な顔をして商人が帰っていくのを見ると、彼女を連れて奥に引っ込む。
オフィーリアは臣下達の中でも特別な寵愛を受けており、ノアの寝所に立ち入ることも許されていた。
ノアは彼女の喉元を撫でてやった。
するとオフィーリアは領主の手に喉元を委ねながら、ゴロゴロと喉を鳴らしながらベットの上で丸まる。
アークロイの虎もこうされては猫のようなものだった。
その後もノアはオフィーリアの弱い部分を撫で続けた。
色んな意味で彼女の主人であるノアは、どうすればこの虎が甘い鳴き声をあげるか知り尽くしていた。
翌日、ノア、オフィーリア、ルーシーは元大公領に仕えていた3人で集まって、騎士ヴァーノンからの用件について話し合った。
「なるほど。つまりあのパクった土地を返すから、兄上に仕えろってか」
オフィーリアから会談の内容を伝えられたノアはため息を吐かずにはいられなかった。
「まったくバカにしすぎだと思いませんか? そんな程度の褒賞で私を釣ろうだなんて。他にも色々と言いたいことはありますが」
「アルベルト兄貴もイアン兄貴も随分ヤキが回ってるようだな」
「いったい誰がこんなふざけた提案を思い付いたのでしょう。ヴァーノン殿は終始気後れした様子でしたが……」
「まあ、まずイアン兄の案だろうな」
「オフィーリア殿を見習い騎士レベルの報酬で釣ろうとは。相変わらずケチですな。イアン様も」
ルーシーはそう言って、お茶をズズッと啜る。
「まさかお前からケチ扱いされる奴がいるとはな」
オフィーリアはそう言いながら頭の痛くなる思いだった。
大公の館にいた頃から、細かいことに拘る人だなと思ってはいたがまさかこれほどとは。
「まあ、とにかく俺が言いたいことはだ。いくら兄上達が好条件を持ち出そうと、オフィーリアを手放すつもりはないってことだ。たとえ、長兄が大公領の全軍を率いてこのアークロイに攻め込んでこようとも、次兄が教会の全財産を引っ張り出そうとも、だ」
「領主様……」
オフィーリアはノアの宣言にキュンとする。
ノアからこの言葉を引き出せたなら、ヴァーノンからの不愉快な申し出も聞いてやった甲斐があったかな、と思うのであった。
「父上の土地返還要求もまだ撤回されていない。今後も大公領から不愉快かつ敵対的な申し出が来るとは思うが、2人とも我慢してくれ」
「大公領からどんな申し出がこようとも、私はノア様の騎士としてどこまでもついていく所存にございます」
「私もノア様の騎士として今後ともお金儲けさせていただきます」
そうして、3人は今後も変わらぬ結束を誓い合うのであった。
騎士ヴァーノンはオフィーリアの返答を持ち帰って、アルベルトとイアンに伝えていた。
2人は彼からの報告に肩を落とす。
ヴァーノンは流石にオフィーリアの嫌味をそっくりそのまま伝えるようなことはせず、オブラートに包んでお断りされたことだけ伝えたが、それでも2人にとってこの報告は落胆するのに充分なものだった。
「そうですか。オフィーリアはこちらの提案に靡きませんでしたか」
「どういうことだヴァーノン。オフィーリアはいったいなぜこの栄転を断るんだ」
「は。オフィーリア殿もはっきりしたことは言われませんでしたが、土地を返還するという提案にご不満があったのではないかと」
「聞いたかイアン。彼女はあれっぽっちの土地では満足できないようだ。やはりもっと栄誉ある地位と報酬を用意するべきではないのか?」
アルベルトがそう言うと、イアンはムッとする。
「兄上、そう事を急いてはなりません。私が思うに彼女は今の僻地での成功にのぼせているのでしょう。父上も仰られていたでしょう? 彼女とてやがてはノアの豪運がまぐれだと気づくはず。いずれ2人の間には亀裂が入ると。その時がチャンスです」
「しかしだな。今すぐにでも彼女を連れ戻さなければ……」
「焦ってはなりません。こんなもの初歩的な価格釣り上げ交渉ですよ。いちいち応じていてはキリがありません。騎士ヴァーノン、あなたも余計なことは言わないでください。彼女への報酬は我々の方で決めることです」
「はぁ。申し訳ありません」
(聞いてきたのはそっちじゃないか)
ヴァーノンは本当はそう言いたかったが、口を噤んだ。
「だいたい今、彼女は勢いに乗っている時期。報酬を釣り上げたところで首を縦になど振りませんよ」
(それは確かにそうだ)
オフィーリアはどれだけ報酬額を釣り上げようと、大公領に帰ってくることはないだろう。
ただ、ヴァーノンとしてはいずれノアの勢いに翳りが見え、オフィーリアが見放すに違いないというイアンの意見にも賛同できなかった。
オフィーリアのノアに対する忠誠心は本物に見えたし、今回の交渉で大公に対する不信感をいよいよ募らせているように思えた。
オフィーリアはどれだけノアが落ちぶれようとも付いていくし、どれだけ金を出そうと大公領に靡くことはないだろう。
それにアークロイを見る限り、内政に大きな綻びは見えなかったし、むしろ経済はますます盛んになっていた。
いや、それどころではない。
ノアはただ経済を活性化させるだけでなく、商人達を味方につけて、各地の情報を集めている。
更なる領土拡大を狙っていることのあらわれではないだろうか。
そして実際、地に足ついた施策を実行しているように見えた。
ヴァーノンは密かにそう思っていたが、2人に伝えるのはやめておいた。
聞かれたことを正直に答えただけで、苦言を呈されるのだ。
聞いてもいないことについて進言しようものなら、どれだけの不興を買うことになるかわかったものではない。