第112話 退却と陽動
ランバート率いるアークロイ軍は、ユーベル軍をほぼ無傷で跳ね返した。
サブレ城内ではユーベルの陣地に対して夜襲を仕掛けようという論調が現れ始めた。
ランバートは500人の極少数での作戦に限ってそれを許した。
夜陰に紛れて塹壕からひっそりと少数の手勢がユーベルの陣地に忍び寄る。
そして、騒ぎを起こして火をかけた。
その効果は絶大だった。
砲撃の恐怖冷めやらぬユーベル兵士達は、またもや砲撃が始まったのかと錯覚し、慌てて陣地から飛び出す者までいる有様だった。
そのまま国まで逃げ帰る者までいたほどだ。
脱走兵は日に日に増えていき、ルドルフはその対応と後始末にさらに数日を要することになる。
ユーベル軍は今、動揺しているから勝負を決めようと、ランバートに進言する者もいなくはなかったが、ランバートはこれを退けた。
敵はいまだ3倍近い兵力であることと、ノアからの命令がサブレ城を死守することだったので、迂闊に兵力を消耗したくなかったためだ。
「ユーベル軍の撃滅はナイゼル軍に任せようではないか。領土を侵されているのは彼らの方なのだから」
ランバートはそう言って勝ちに逸る部下達を戒めた。
ユーベル軍が2万の押さえだけ残して、本隊がサブレ城へと向かったのを見ると、ブラムは風のような速さで兵力をダスカリア城に集めた。
ダスカリア城のナイゼル軍はみるみるうちに膨れ上がり、すぐに総勢5万になる。
(速い!)
ダスカリア方面の指揮を預かるヴァーノンは、敵の数が2倍以上に膨れ上がったのを見て、もはやブラムを押さえるのは不可能であることを悟った。
となれば、ヴァーノンに取れる選択肢は1つ。
撤退しながらなるべく時間を稼ぎつつ、兵力を温存して、ルドルフに引き渡すことだった。
ルドルフと合流することができれば最大で兵力5万。
まだ、勝ち目はある。
(だが、兵力を温存しながら逃げ切ることなどできるのか。ナイゼル軍相手に)
ヴァーノンは大気を通してビリビリと闘気が伝わってくるのを感じた。
同時にこちらの隙を隈なく探り、襲い掛かろうと虎視眈々と狙っている静かな殺気。
まるで森の中で狼に付け狙われているような嫌な感覚。
まだ戦ってもいないのに物凄い威圧感だった。
(これがナイゼルの狼、ブラムか。噂以上だ)
ヴァーノンはどの戦場でも感じたことのない異質な圧迫感に晒されて、生きた心地がしなかった。
ヴァーノンはいつでも陣地を引き払って退却できるよう、各員に支度を命じる。
1日目、ブラムは平原に部隊を展開して決戦の機会を与えたが、ヴァーノンは陣地内から動かなかった。
2日目は騎兵を出して、兵糧を集めにいった兵士を狙い撃ちして小競り合いを演じた。
ナイゼル軍はいくらかユーベル軍騎兵を討ち取ったが、ヴァーノンは動かなかった。
そしてとうとう3日目、ブラムが動いた。
1万の兵士をユーベル軍の陣地の背後に回り込ませようとする。
それも魔法兵中心だった。
陣地に籠っていられるのもこれまでと悟ったヴァーノンは、荷物を纏めて陣地を引き払い退却する。
森や丘を盾にして地形を利用しながらあらかじめ決めていた地点まで退却する。
途中、ヨルムという将校が「敵を前にして一戦も交えず逃げるのはユーベル軍の名折れ」「このまま逃げれば、ユーベル軍は腰抜けの臆病者とマギア地方で永遠に笑い者になるぞ」と抗議したものの、ヴァーノンは「我々の任務はナイゼル軍を押さえて、可能な限り時間を稼ぐことだ」「すでにルドルフ様には退却作戦の意向を伝えている。ここは恥を忍んで合流し、後の決戦にて報復しよう」と言って説得した。
ヨルムは不承不承従う。
元々、ユーベル軍は大公と直接契約を結んでいる貴族達と契約を結んでいる騎士という関係が基盤となっており、軍の組織においてもそれは代わりなかった。
今回のルドルフによって敷かれた強引な指揮系統は、超法規的な措置であり、それだけに異論も多かった。
大公が頭を下げて頼んだものだから、付き従っているだけで、すでに聞いていた話と違うし、晒されている劣悪な環境に不満を抱いている者も少なくなかった。
ヨルムはその筆頭格であり、本来、ヴァーノンよりも身分が上なだけに今回の人事と指揮系統に不満も人一倍多かった。
ブラムは1万の兵だけダスカリア城に残し、4万の兵でヴァーノンを追う。
ナイゼル騎兵がユーベル軍に襲い掛かり、背後を脅かしたがヴァーノンが巧みに殿を置いたため、犠牲は最小限に抑えられた。
(ちぃ。なかなか隙を見せないな)
ブラムはユーベル軍を追いながら、ジリジリとした苛立ちを覚えていた。
補給が滞っているのだから、すぐに仕掛けてくると思っていたが、敵は思いの外我慢強かった。
陣地から出ずにギリギリまで立て籠もる。
こちらが背後を遮断しようとしたら、不利を悟ってすぐに退却。
狙いは明白だった。
退却してナイゼル軍を誘き寄せつつ、ルドルフ率いる本隊と合流して決戦に賭ける。
(なんつーか、すげー真面目な感じだ)
だが、それだけに隙がない。
退却ルートも上手く地形を選んで、仕掛けにくくしている。
おそらくあらかじめこの展開を予測して、ルートを選定していたのだろう。
なかなかの武略である。
(だが、統率の方はどうかな?)
すでに狙いの目星は付けてある。
ブラムは敵を追いかけながらじっくり観察した結果、行軍のわずかな澱みから、この退却作戦に不満を抱いている部隊があることを見抜いていた。
ヨルムの指揮する部隊だ。
そして堅実なゆえに敵の退却ルートも読みやすい。
「実力は見切った。仕掛けるぞ」
(合流する前に撃滅してやる)
「みなよくここまで頑張った。ルドルフ様の本隊と合流するまであと少しだ」
ヴァーノンは疲れの隠せない将校達を精一杯励ましていた。
「ルドルフ様の本隊と合流すれば、我が軍は総勢5万。ナイゼル軍を上回れるはずだ。そうなれば形勢逆転だ。ナイゼルの若造に目に物を見せてやろう」
そうして励ましていると、偵察から帰ってきた騎兵が伝令にくる。
「申し上げます。ナイゼル軍に動きです。フェッツ村の方を迂回しています」
「フェッツ村を?」
(迂回して右側面に回り込む気か? いや、待て。まさか、狙いはカルディ城か!?)
カルディ方面には反乱軍が溢れている。
それらを糾合しながら、急襲されればカルディ城はひとたまりもない。
しかも本隊との情報を遮断されれば、すでにユーベル軍は壊滅したなどと噂を流されて、ますます反乱は盛んになり、ユーベル軍の士気は落ち、城は立ち所に落ちてしまうだろう。
何よりただでさえ欠乏している補給がさらに滞ることとなる。
ユーベル軍はカルディ、サブレ、ダスカリアの3城に囲まれて、飢餓に苦しみながら孤立することとなる。
そうなればこの退却作戦も意味がなくなる。
(くっ。どうする? ナイゼル軍を追うか? いや、しかし……)
いかにも罠っぽかった。
本当にカルディ城が狙いならもっと隠密に進めるのでは?
陽動作戦の可能性は捨てきれない。
ヴァーノンが軍議にかけてみたところ、紛糾した。
ヨルムに近い者は決戦を主張し、ヴァーノンに近い者達は慎重策を続けるべきとした。
ヨルム側は追撃のチャンスであり、反転攻勢に出るべきだと主張した。
「たとえ罠だとしても、敵を釘付けにするためにも一度くらい戦った方がいいのでは?」という折衷案も出た。
(くそ。どっちだ? 敵は方針転換したのか? 罠なのか? それとも両方か?)
その日は結論が出なかった。
とりあえず敵を見失わない程度の距離を保ちながらルドルフとの合流を目指すという方向でどうにか折り合いをつける。
しかし、次の日事件は起きた。
砲撃音が鳴り響いたかと思うと、布陣していた側面の丘の上から砲弾が飛んできて、ヨルムの部隊に着弾する。
当然、ヨルムは激昂して、丘へと兵士を出撃させた。
(あんな高いところから攻撃? まさか。あれがゴーレムか?)
ノルン製ではないものの、それでもユーベル勢からすれば充分衝撃的だった。
(くそ。よりにもよってヨルムの部隊に)
ヨルムがヴァーノンの作戦に不満を持っていたのは知っていたので、あえて先に行かせていたのだが、それが逆に仇となった。
(どうする? 罠の可能性が俄然高くなったぞ。しかし……)
このままヨルムを見捨てれば、兵力を損耗した上カルディ城も敵の手に落ちるという最悪のパターンになる可能性もあった。
すでにヨルムの命令に従って、兵士の半数以上が丘のゴーレムに向かって突撃していた。
ゴーレム使いは急いで坂を駆け下りながら森の方へと逃げ込もうとしている。
あそこに大部隊が突っ込めば、包囲するのに絶好の場所だった。
(くっ、どうする?)
ヨルム達は止めても聞かないだろう。
慢性的な疲労と空腹、ブラムに追いかけられる異質な圧迫感で、ストレスは頂点に達していた。
激昂するのも無理はない。
(ルドルフ様からの命令はナイゼル軍を押さえること。ええい、やるしかない)
「みんなヨルムを援護するぞ」
ヴァーノンの部隊も少し遅れて、ヨルムの部隊に続く。
すると俄かに周囲の森が殺気立ち、伏せていたナイゼル兵達がワラワラと現れ始めた。