第二百十六話
戦場暮らしの元冒険者。
ゲラリオはクルルが用意してくれた酔い覚ましの飲み物を荒々しく飲み、げっぷをしてから答えた。
「帝国が物量で押し切ってこない限り、負ける相手なんぞいやしない。少なくとも相手がこっちの戦術を真似するまではな」
「つまり、しばらくは無敵だと」
ゲラリオはひっくとしゃっくりをしたが、笑おうとしたのかもしれない。
「俺を呼んだのは、島に逃げ込んできた奴隷獣人の件だろう? なのに、どうしてそんなことを聞く? いや……今度はなにを考えてやがる?」
その言葉は、その場にいた全員の気持ちを代弁したものだろう。
自分は、大きく息を吸った。
「バランさんからの手紙と一緒に、ロランのフロストさんからも、この件について情報が送られてきていました。ヴォーデン属州側は逃亡奴隷が急増したことに強い不満を抱いていて、しかもそれを、ジレーヌ領と、ジレーヌ領が属するアズリア属州側の陰謀だとみなしていると」
自分が視線をコールに向けると、コールは少し居住まいを正して、うなずいた。
「兄からの手紙には確かにそうありましたし、予想内の反応でしょう。古くから逃亡奴隷は捕らえ次第、所有者に送り返すのが習わしです。今回の件で言えば、ヴォーデン属州から越境してこちら側に逃げてくる逃亡奴隷は、州境の辺境領主たちが捜索、捕縛するのが一般的な対応となります。しかし……今回はあまりに数が多く、辺境領主たちでは対応しきれないようです。結果、多くは見逃さざるを得ず、それをヴォーデン側がどう見ているかとなれば」
「能力の不足ではなく、アズリア属州側の怠慢、あるいは陰謀、ですね」
コールは肩をすくめる。
ゲラリオがげっぷとともに、忌々しそうに言葉を吐く。
「あるいは、そうだってことにして、損害を全部俺たちにひっかぶせようとしているわけだ」
ゲラリオの言葉に、コールはうなずく。
共通の法律があるわけではなく、確かな捜査機関があるわけでもない。
そして一度相手に舐められたら、骨の髄までしゃぶりつくされるのが、この弱肉強食の世界である。
「兄の見立てでは、ヴォーデン側は逃亡奴隷を捜索、捕獲するのと合わせ、アズリア側の責任を問うために、魔法使いを送り込んで来る可能性が高いとのことでした。僕もこの推測は妥当だろうと思います」
「じゃあ、戦……ってこと?」
イーリアが不安そうに言って、隣のクルルの手を握っている。
戦となれば、貴重な戦力のクルルもそこに向かうだろうから。
「本気で戦をするというよりかは、ヴォーデン属州としての怒りを表明し、交渉を有利に進めようという思惑が主だと思います。奴隷交易は帝国の拡張政策を支えるために行われている、という建前もありますから、大義名分も得やすいですし」
コールの説明に、イーリアはひとまずほっとしたようだ。
大量の逃亡奴隷を見逃していることは、ヴォーデン側が怒り狂って賠償を引き出す大義名分としては、確かに申し分ない。
ここで一気に強気に出て、逃亡奴隷以外のあれやこれやの要求までセットで押し込んできたとしても、全然驚かない。ノドンや、自分たちが返り討ちにする前のロランならば、そういうことを平気でやっただろうから。
だがその理屈は、こちら側からも言えることなのだ。
「自分は、ヴォーデン側の戦力が確認でき次第、速やかに返り討ちにすべきだと進言します」
「なっ」
コールが息を呑み、イーリアが椅子から立ち上がる。
今のジレーヌ領の戦力をもってすれば、ヴォーデン属州の魔法使いなどものの数ではない。
いや、合成魔石を再発明した時点で既にそうだった。
けれど武力行使を極力避けてきたのは、敵を打ち倒したその後のことが問題だから。
それでもなお、この件では速やかに、そして圧倒的に迎撃すべきだと判断した。
クルルを見やると、事前に説明を聞いていたクルルは、秘密を共有する友達みたいに、目を輝かせている。
言え、言って驚かせろとばかりに。
自分がそんなクルルの後押しを受け、説明しようとした時のことだ。
「クルルよ」
薬草入りの水を飲んでいたゲラリオが、ひっくとしゃっくりをしてから、やけに爽やかな笑顔でこう言った。
「お前、ついにヨリノブにヤラせてやったんだなあ」
しみじみとした物言いだった。
それから機嫌よく、水を飲んでいる。
一方のクルルは、固まったまま。
やがてその言葉が、クルルの可愛い猫の耳を通過して、脳に到達したのだろう。
たちまち目を尖らせたクルルが、思い切りゲラリオの頭をひっぱたいた。
「いっ⁉ 痛ってぇ! わ、な、なんだよ、おい! 痛っ、痛えって!」
クルルは顔を真っ赤にして、ゲラリオを容赦なく叩き続けている。
何事かと驚いていたイーリアがようやく我に返り、クルルの袖を引いて止めに入っていた。
そして背中を丸めて叩かれるままだったゲラリオは、どうやら本当に悪気なく、クルルの尻尾を踏んづけてしまったらしかった。
ふうふう息を吐いている弟子のほうを、恐る恐るうかがっているのだから。
「な、なんなんだよ……」
なんなんだよ、はこちらの台詞でもあるのだが、ゲラリオは不思議そうな顔でこちらを見た。
「おい、ヨリノブよ。じゃあなんで、いきなりそんな男前なことを言い出したんだ?」
その言葉には、クルルをなだめていたイーリアも、犬耳を立てていた。
ただ、自分は聞き返してしまう。
「男前?」
「男前だろ。お前たちはあんな合成魔石の秘密を握りながら、極力使おうとしてこなかったじゃねえか。なんならあの魔導隊との戦いの場でさえ、殺しを避けようとしていた。だから」
ゲラリオは、完全に拗ねているクルルをちらりと見た。
「だから返り討ちだなんて、一体どうしたんだ?」
ゲラリオの驚きは、方法論についてのものではなかった。
自分の、いわば変節に驚いたのだ。
そしてむさくるしい戦場で暮らしてきたゲラリオには、ヘタレの大宰相が武力の行使をためらわない“男前”になったとしたら、それは異性と寝床を共にして自信を得たから、くらいしか思いつかなかったのだろう。
ついでにその考えにイーリアもまた共感していそうなのは、クルルとこちらをちらちら見比べている様子からも明らかだ。
この異世界は嫌いではないが、先進国生まれサブカル育ちの自分には、いささか文化が野蛮すぎる。
「色々違います」
きっぱり答えてから、疲れたように肩を落とす。
健吾も楽しそうに笑っていたので、抗議の視線を送っておいた。
「説明します。それで、あの、クルルさん」
自分がクルルに声をかけると、下品な師匠に怒り狂い、肩で息をしていたクルルがこちらを睨みつける。
こんな辱めを受けるのは、お前がヘタレなせいだとでも言わんばかりに。
「あの、会議が長くなると思うので、食事でも」
「……」
クルルの中には妙な掟がいくつかあって、なにかある時は食事をとるというのがそのうちのひとつだ。
それはクルルを落ち着かせる、良い口実にもなる。
「ふんっ」
クルルは部屋から出ていき際、通りがかった最後にもう一回師匠の後頭部を叩いて、部屋から出ていった。
そんなクルルを全員が視線で追った後、鳥の群れがそうするように、全員が揃ってこちらを見た。
すごく、もの問いたげな視線で。
「……あの、クルルさんとは、なにもありませんからね」
たちまちイーリアからヤジが飛び、コールは肩をすくめ、ゲラリオは椅子からずり落ちそうになり、呆れた様子を全身で表現していた。
「というか、なんでみんなそんなに興味津々なんですか?」
精一杯非難の気持ちを込めたつもりだったが、イーリアは可愛らしく両頬に手を当てながらこう言った。
「楽しいからに決まってるじゃない」
「……」
異世界には異世界のルールがあることは承知している。
けれど産業革命の前に、まずこの下世話な文化レベルを引き上げるべきではと、心底思ったのだった。




