第二百十三話
獣人の奴隷交易を廃止させる。
その話は以前にも出たことがある。
けれど獣人の奴隷交易は帝国の政策に組み込まれていて、その奴隷交易をどうにかするのは明らかに自分たちの力量を越えていると判断した。
だからあの時は諦めるしかなかった。
だが、クウォンにおいて帝国の魔導隊すら簡単に壊滅させられた、今ならば――。
クルルだけでなく、イーリアもきっと、そう思ったのだろう。
「奴隷という身分は、自分のいた世界にもかつて存在していました。自分の生きていた時代には、ほとんどなくなりましたが」
自分がそう切り出すと、クルルの耳が期待にぴんと立った。
異世界の知識により、この世界で不可能だったことを何度も可能にしてきたのだから、今度もまた。
けれど自分の顔が曇るのは、こう言うほかなかったからだ。
「ただ、それは大きな歴史のうねりというか、もはや解放は止められないという情勢の後押しがあったんですよ」
奴隷制度を維持するのは許されない、と思う人々が十分に多くなった後でも、最後の最後まで奴隷支持派の抵抗が続き、国によっては奴隷の扱いを巡って内戦に陥った。
大きな仕組みを変えるというのは、それほどに大変なことなのだ。
もちろん、クルルやイーリアが考えるように、こちらには過剰ともいえる戦力がある。
死神の口戦術と合成魔石を用いれば、ヴォーデン属州など物の数ではあるまい。
解放者として乗り込んだクルルが、ドラクロワの絵画よろしく、旗を手に奴隷獣人たちを導く様子は簡単に想像できる。
けれど。
この世界の常識として、獣人奴隷制度が悪と見なされていないというのが問題だった。
帝国中央部では獣人奴隷の取引は下火らしいが、それは決して獣人の地位が人間と近いことを意味しないだろう。
この世界では元来、獣人は二級市民なのだ。
神話の時代から人間に隷属する存在として描かれている。
だから前の世界のように「同じ人間をモノのように扱うのは倫理に反する」というロジックが使えない。
おまけにここは前近代の文明感で、個人が尊重されるべきとする啓蒙主義の気配すら感じられない。そこでどうやって、奴隷獣人を解放するための論理を作り上げるのか?
それは結局、獣人の血を引く領主様の同情に依るしかなく、ある意味で特殊な思想を持ったその領主様の一存で、この世界の常識に対抗しなければならない。
大衆の理解が得られないのなら、権力者にやれることはひとつしかない。
暴力による、強制だ。
「ヴォーデン属州に乗り込んで、制圧することはできると思います」
そう切り出しただけで、自分の言葉の先に望まぬ気配を感じ取ったのだろう。
クルルはなにか言いたそうに唇をわなつかせたが、ぐっとこらえていた。
「そして制圧の後、イーリア様の名前で、奴隷制度を廃止することはできると思います。けれどそれは間違いなく帝国中央の注意を引きますし、そもそもヴォーデン属州で奴隷交易が盛んなのは、帝国の拡張政策のためだったことを思えば、反乱と見なされる可能性が高いです」
ヴォーデン属州の西端は、蛮族の神が住むと称される山脈だった。
かつて帝国が属州をどんどん平定していった時、その山で進軍が止まったらしい。その山には神ならぬ、重力魔法のようなものを操る悪魔がいたからだ。
帝国はいったん軍を引き上げたものの、代わりに現地の権力者に引き続き制圧の任務を命じることにした。
そして貧しい土地であるヴォーデン属州は、獣人たちを捕らえて奴隷として売ることで、その戦費を賄うしかなかった。
長く続いてきたその制度をぶっ壊そうというのだから、帝国に正面から喧嘩を売るのと変わらない。
しかもクルルが持ってきた手紙は、一枚だけではない。バランのものだけではなく、バックス商会のフロストからのものもあった。
そこにははっきりと、ジレーヌ領の噂を聞いた奴隷獣人が逃げ出していることについて、ヴォーデン属州内で強い不満が醸成されていることが書かれていた。
それはそうだ。
ヴォーデン側から見たら、ジレーヌ領が奴隷獣人たちの逃亡を唆しているようなものなのだから。
「じゃあ、お前は――」
両のこぶしを握り締めたクルルが、こちらを睨む。
それが八つ当たりだと本人も理解していることが、苦悶の表情から伝わってくる。
自分はそんなクルルを前に、あくまで冷静に、こう言った。
「それに奴隷制度というのは、無理に壊した場合、問題が解決するどころか悪化する可能性があるんですよ」
人と目を合わせることが苦手な自分が、クルルの目をまっすぐに見た。
クルルが怯んだのは、その意味を理解したからだろう。
自分の背後に、確固たる理屈があると察したのだ。
「奴隷は、財産なんです。誰かの所有物で、商品として流通しているんです。なのでそれをいきなりなかったことにするのは、倫理としては正しくても、経済的に破滅的な影響をもたらします」
間違いなく、と付け加えた。
いつも強気なクルルが、怯んだように猫の耳を伏せる。
「たとえば、ある大きな農場を所有する人を想像してください」
「……?」
叱られてしゅんとした子猫のようにこちらを見てくるクルルに、もう一度同じことを言う。
するとクルルは、なんだかわからないといったままに、ゆっくりうなずいた。
「その農場主は、借金をして奴隷を買ったとします。その奴隷に畑を耕してもらい、農産物を売ることで借金を返そうとしています。でも、そんなある日、奴隷は全員自由だと言われたらどうなりますか?」
しばし困惑したようなクルルだったが、急に短く息を吸い、口をつぐんだ。
頭の回転が速く、勘も良い少女だから、話の先が見えたのだろう。
「奴隷をいきなり失えば、農場主に残されるのは、到底自分では耕しきれない畑と、借金だけです。しかも困るのは農場主だけではありません。作物が収穫されなければ、その作物が並ぶはずだった商店の棚は空っぽのままです。その作物を町に運んで手間賃をもらっていた荷馬車の御者も、馬の餌代を稼げなくなります。農場主に金を貸した人だって、大損します。すると失った稼ぎを埋め合わせるため、みんなが節約します。新しい服の購入や、建てられる予定だった家の工事は延期されるでしょう。すると職人たちの稼ぎも減り、彼らもまた節約するから、急激に物が売れなくなっていきます。つまり、全員が貧しくなるんですよ」
経済は長い連鎖によってできている。
どこかを大きくいじれば、その影響は確実に多岐にわたる。
「そしてこれは、ある意味で当たり前のことなんです」
クルルの顔が歪むのは、この世界の常識をいつも蹴り飛ばしてきた異界の知識が、はじめて自身の前に立ちはだかったからかもしれない。
「世界全体をひとつの貯金箱とみなした時、大きな財産としての奴隷を取り除いてしまうわけです。その減った財産の分だけ、皆が貧しくなるんです。しかもこれでさえ、問題のすべてではありません」
自分はゆっくりと息を吸って、言った。
「働き手としての奴隷獣人がいなくなれば、生産が激減しますから」
「生……産?」
「はい。獣人の皆さんの腕力は人間の比ではありません。彼らがいなくなった埋め合わせを人間だけでやるのは、まず無理です」
ほかならぬこのジレーヌ領も、魔石鉱山で栄える都市だが、その働き手である獣人たちがいなくなったとしたら、どうか。
クルルは唇が白くなるくらい、口を引き結んでいた。
「畑は耕されず、木は切り倒されず、パンがなくなり暖を取る薪もなくなります。ヴォーデン属州では凄まじいインフレ……物価の高騰ですね。モノの値段が跳ねあがるはずです。商品を誰も買えなくなり、たくさんの人々が困窮に陥るでしょう」
自分は再び、クルルと視線を合わせた。
この世界とは別の世界を見てきた人間の目に、クルルは明らかに気圧されていた。
「もちろん、自由の身になった獣人の皆さんを雇い直して、畑や山で働いてもらうこともできるとは思いますが……その場合、「適切」な給与を支払うことになるでしょう。それは人件費が今までより増えることを意味しますから、雇い主の人たちの利益が激減します。これは結局、人間たちの財産を無理やり再配分するのと同じなんです。ヴォーデン属州の人たちが優雅な暮らしをしているのなら、その再配分も意味があると思いますが……」
話を聞く限り、貧しい土地なのだ。
そんな場所で財産の再配分を強制的に行えば、なにが起こるのか。
ひとつのパンをちぎっても、聖書のように元のパンがふたつに増えるわけではない。
社会は大混乱に陥り、人々の恨みはわかりやすい標的に向かうだろう。
それは解放された獣人であり、獣人を解放したジレーヌ領だ。
こうなると平和的な統治などまず無理で、ゲリラ化した人々の破壊行為や、なんなら帝国中央に助けを求めてジレーヌ領と全面戦争になるのが目に見えている。
正義のためには、背負い込むべきリスクだろうか? あるいは、奴隷制度を前提とした社会に暮らしていた人たちは、全員飢えて死んで然るべきなのだろうか?
前の世界の皮肉っぽい思想家は、いみじくもこう言った。
地獄への道は、善意で敷き詰められている、と。
「じゃあ……」
クルルが目を逸らし、うつむいた。
今までたくさんの問題を解決してきたが、無理なことは無理。
期待が大きかった分、失望もまた大きい。
自分はできればクルルやイーリアの期待に応えたいし、自分の感覚としても、獣人奴隷制度はどうにかしたいと思う。
ただ、帝国の政策云々はおいておくとしても、純粋に経済的な面から考えてさえ、奴隷解放は難しい。
獣人たちを自由の身にすることで、ヴォーデン属州全体の生産性が激増するのなら、まだしも可能性はある。この場合、要は奴隷獣人たちが、自分たちの稼ぎで自分たちを買って自由の身になることと同じだから。
獣人に対する人々の意識は変えられずとも、経済的な混乱は最小限にとどめられるだろう。
けれどヴォーデン属州は貧しい土地であり、生産の激増など望めまい。
それができるならばとっくにやれているはずだ。
そんなことができるのは、それこそ異世界転生チートくらいのものであり、産業に革命でも起きない限り無理な――。
「ふぇぇぇぇぇぇ!??」
思いきり変な声が出た。
驚いたクルルの目が真ん丸になり、耳と尻尾の毛も全部逆立っていた。
でも、自分は手元の手紙をめくるので忙しかった。
この手紙はそもそもなんのためのものだったか。
グアノやら石炭やらを求めていたのは、なんのためだったか。
というか、クウォンからの帰り道、散々クルルにしたり顔で語っていたではないか。
生産性の激増としての、産業革命を!
「あの」
自分が控えめに口を開くと、クルルがびくりと体をすくめた。
きゅうりを見せられた猫みたいなクルルに、自分は言った。
「解決、できるかもです」
いや、できないとおかしいはずだ。
これは、そういう話なのだから。




